李 垣(り えん)は中華民国満洲国の政治家・外交官。北京政府の要人で、後に冀東防共自治政府にも参加した。謙六

李垣
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 直隷省順天府大興県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 李垣
簡体字 李垣
拼音 Lǐ Yuán
ラテン字 Li Yüan
和名表記: り えん
発音転記: リー ユエン
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事績

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清末の活動

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北京同文館を卒業。最初は東三省に赴任し、吉林交渉局提調、ハルビン鉄路交渉局提調を歴任した。その後にロシアへ留学し、サンクトペテルブルク大学で学ぶ。卒業後は駐ロシア公使館で通訳官を担当した[1]

北京政府での活動

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中華民国成立後は、北京政府の国務院法制局編訳員に任命される。1913年民国2年)に法制局検事となる。翌年に署理法制局参事に任ぜられた[1]

その後、李垣はモンゴル(外蒙古)で官職を歴任する。1918年(民国7年)3月に恰克図佐理員に任じられた。1920年(民国9年)7月には、徐樹錚の辞任を受けて護理西北籌備使を兼任した。同年9月、烏努烏梁海(タンヌ・ウリャンカイ)参賛へ異動する。12月、さらに科布多(ホブド)参賛に転じた[1]

翌年3月、庫烏科唐鎮撫使陳毅[2]がモンゴル軍とロシア白軍に敗北し、北京政府から罷免されると、李垣が代理庫烏科唐鎮撫使を兼任した。しかし1922年(民国11年)、ソビエト連邦の支援を受けたモンゴルのボグド・ハーン政権により、蒙古での北京政府の役職は一掃された。これにより、李垣は蒙古での地位を失っている。なお蒙古にあった間、外蒙冊封副使、蒙疆経略使署左参賛なども歴任している[1]

1925年(民国14年)、善後会議会員となる。7月には、臨時参政院参政となった。翌年9月には、京兆尹兼北京市長に任ぜられた。1927年(民国16年)、辞職している[1]

満洲国・親日政府での活動

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1933年2月、ソビエト連邦チタ満州国領事館が開設されることになり、李垣が領事に任命された[3]1935年(民国24年)11月、殷汝耕が冀東防共自治委員会(翌月、冀東防共自治政府に改組)を成立させると、李垣もこれに参加して貨物査検所長に任命されている[4]。以後、李垣の行方は不詳である[5]

  1. ^ a b c d e 徐主編(2007)、432頁。
  2. ^ 中華人民共和国の元帥・外交部長として著名な陳毅とは、同姓同名の別人。
  3. ^ 「満洲國領事館 チタに新設」『読売新聞』1933年1月29日。
  4. ^ 高木(1937)、139頁。
  5. ^ 尾崎監修(1940)、329頁の記載によると、中華民国臨時政府1938年(民国27年)10月1日に財政部を創設した際に李垣が同部総務局長に就任、としている。しかし、劉ほか編(1995)、1021頁及び1288頁によれば、この総務局長に就任した人物は「李桓」(別号は経武。四川省隣水県出身)という別人である。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 高木翔之助『冀東政権の正体』北支那社、1937年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
   中華民国北京政府
先代
劉驥
京兆尹
1926年5月 - 1927年9月
次代
張済新