杉浦 義道(すぎうら よしみち、1864年5月20日元治元年4月15日[1] - 1930年11月7日[2])は、日本の聖職者医療従事者翻訳家[3]日本聖公会の聖職者として、労働者への伝道に力を注ぎ、労働者矯風会を興して貧者の更生に尽力したほか、サマリタン医院を創設して医療活動に従事した[3][4]

人物・経歴

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1864年、若狭国小浜(現・福井県小浜市)生まれ[1]。父親は、米国聖公会宣教師ヘンリー・D・ペイジから洗礼を受けた聖公会信徒[5]。弟は立教大学元学長の杉浦貞二郎

築地の立教学校(現・立教大学)に入学する。同校在学中の1881年(明治14年)にチャニング・ウィリアムズ主教(立教大学創設者)より感化を受けて洗礼を受ける[3]

一旦、大阪の神学校や医学校に転ずるなどした後に、立教学校の後身校である立教大学校へ復学する[3]。その後、東京三一神学校(現・聖公会神学院)に入学する[3]

1887年(明治20年)には、義道の影響から弟の杉浦貞二郎も日本聖公会の信徒となる[6]

この頃の日本では国粋主義が拡がり、欧化主義への反発が生じる社会情勢となるが、立教大学校では学則があまりにも外国的で、学校運営が外国人主導で、学生の希望が反映されていないとの改革運動が、小林彦五郎石井亮一早川喜四郎、杉浦貞二郎、岩佐琢蔵阪井徳太郎ら在学生たちから起こった。杉浦義道、名出保太郎皆川晁雄ら三一神学校の学生もこの運動を支援した。彼らは改革のため、大阪・泰西学館教頭の左乙女豊秋を招聘することを決め、杉浦がジェームス・ガーディナー校長と交渉し、石井亮一が大阪で左乙女にこれらを伝えた[7]

1890年(明治23年)に、東京三一神学校(現・聖公会神学院)を卒業[3]。 翌1891年(明治24年)、日本聖公会の執事按手を受けて、真光教会司牧補佐者となった[4]

1894年(明治27年)、杉浦は本郷・森川町にサマリタン医院を創設する。信徒の福原道太郎と山中熊也の両医師の協力により、労働者に対する医療伝道を開始する[4]

1895年(明治28年)には、長老の按手を受け、真光教会の初代牧師となり[4]、当時貧しい人々が多く暮らしていた本所深川の伝道に従事した[4]

1907年(明治40年)には、本所区菊川町に労働者矯風会を起こし、生活困窮者、刑余者、朝鮮人などの支援活動を行った[3][4]

主な著作

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  • 『近世進化新論 第二版』ジョン・フィクス著;杉浦義道 訳;チ・エス・チング序,池田栄進館・内田老鶴圃,明治26年
  • 児童教育指針』デュ・ボアー 著;杉浦義道 訳,日本聖公会出版社,明治33年

脚注

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  1. ^ a b 『基督者列伝 : 信仰三十年』警醒社書店、1921年、p.229。
  2. ^ 『官報』第1255号、1931年3月9日。
  3. ^ a b c d e f g 山崎 晃史「石井亮一にとってのキリスト教信仰 -- 入信経緯と信仰生活およびそれらを支えたキリスト者コミュニティ」『清泉女学院大学人間学部研究紀要』第20号、清泉女学院大学人間学部、2023年3月、27-46頁。 
  4. ^ a b c d e f 日本聖公会 東京教区 真光教会 『真光教会について』
  5. ^ 佐藤大祐,斎藤功「明治・大正期の軽井沢における高原避暑地の形成と別荘所有者の変遷」『歴史地理学』第219号、歴史地理学会、2004年6月、1-20頁。 
  6. ^ ブリタニカ国際大百科事典「小項目事典」 『杉浦貞二郎』 コトバンク
  7. ^ 『立教学院百五十年史』 第一巻、107頁