杉本 公孝(すぎもと きみたか、1938年7月4日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手

杉本 公孝
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県岩国市
生年月日 (1938-07-04) 1938年7月4日(86歳)
身長
体重
176 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手 遊撃手
プロ入り 1961年
初出場 1961年
最終出場 1967年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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岩国高校ではエース金沢宏を擁し、1955年秋季中国大会県予選準決勝に進むが山口高に敗退。翌1956年春季山陽大会では決勝に進出するが、岡山東商に大敗を喫する。同年夏は県予選で敗れ、甲子園には出場できなかった。

卒業後は立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは長嶋茂雄の後継三塁手として立大黄金期後半を支え、在学中5回優勝、全日本大学野球選手権大会2回優勝。1959年春季リーグではリーグ史上初の5連覇が期待されたが、高校同期の金沢を主戦投手とする早大に競り負け2位に終わる。リーグ通算79試合出場、283打数72安打、打率.254、3本塁打。1958年春季リーグでベストナイン(三塁手)に選出された。大学の1年上には森滝義巳種茂雅之高林恒夫らがおり、同期には五代友和赤池彰敏(中退)、枝松道輝がいた。

1961年国鉄スワローズへ入団[1]。この年就任した砂押邦信監督によって、開幕から二番打者、遊撃手に抜擢され、早大から新入団の徳武定之と三遊間を組む。しかし8月末に故障で離脱、平井嘉明にポジションを譲った。最終的に89試合出場したが守備ではリーグワーストとなる28失策を記録してしまった[1]

1962年もレギュラーとして起用されるが8月末にはまたも故障欠場。1963年豊田泰光の移籍によって定位置を奪われ、15試合の出場に留まったが、1964年には土屋正孝に代り二塁手のレギュラーとして復活[1]。同年は初めて規定打席に達した(28位、打率.223)。しかし翌年には岡嶋博治が移籍入団。出場機会が減少し1966年大洋ホエールズへ移籍した[1]。ここでは活躍の場に恵まれず1967年限りで引退[1]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1961 国鉄
サンケイ
89 381 329 32 79 19 2 4 114 20 7 5 13 1 36 0 2 69 7 .240 .319 .347 .665
1962 110 357 313 24 58 12 2 3 83 12 5 3 11 2 26 3 5 67 4 .185 .259 .265 .524
1963 15 24 22 0 1 1 0 0 2 1 0 1 0 0 2 0 0 7 2 .045 .125 .091 .216
1964 127 458 417 38 93 9 1 10 134 36 5 2 7 1 32 0 1 56 6 .223 .280 .321 .601
1965 81 249 236 20 56 6 2 3 75 15 3 2 3 0 10 1 0 44 5 .237 .268 .318 .586
1966 大洋 35 46 41 2 7 0 0 1 10 1 1 0 3 0 2 0 0 11 1 .171 .209 .244 .453
1967 50 54 50 2 11 3 1 1 19 7 0 0 0 1 3 0 0 13 1 .220 .264 .380 .644
通算:7年 507 1569 1408 118 305 50 8 22 437 92 21 13 37 5 111 4 8 267 26 .217 .278 .310 .588
  • 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に球団名を変更

背番号

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  • 1 (1961年 - 1965年)
  • 2 (1966年 - 1967年)

脚注

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  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、289ページ

関連項目

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外部リンク

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