杉山進
杉山 進(すぎやま すすむ、1932年4月10日 - )は、長野県下高井郡野沢温泉村出身の元アルペンスキー選手で、現在は指導者。
「杉山スキー&スノースポーツスクール」代表。日本職業スキー教師協会(SIA)第5代会長。
来歴
編集現役時代
編集幼少期からスキーに親しみ、旧制飯山中学・飯山北高ではスキー部で活躍[1]。高校1年の時、従兄の片桐匡(元全日本スキー連盟副会長、長野県スキー連盟会長)の紹介で、猪谷六合雄・千春父子と知り合う[1]。北アルプス・涸沢での猪谷父子の合宿にも参加し、大きな影響を受ける[1]。高校卒業後、長野電鉄に入社[1]。1954年の第32回全日本スキー選手権大会では、滑降・回転の2冠となり[2]、次世代の有力選手として注目されるようになる[1]。翌年の同大会の回転も制し[1][2]、猪谷千春とともに1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックの代表に選出された[1]。
同オリンピックでは、アルペンスキーの滑降・回転・大回転にエントリーしたが、初の国際大会出場ということもあって、実力を十分発揮出来ず、滑降33位、回転37位、大回転47位と不本意な成績に終わった[1][3][4]。大会終了後、オーストリアのサンアントン、スイスのサンモリッツ、フランスのシャモニーなどを回り、当地のレースにも参加した[5]。
帰国後、引き続きヨーロッパへの武者修行を希望したが、当時はまだ民間人の自由な海外旅行は認められておらず、願いは適わなかった[5]。その後も第一線で活躍し、1957年の第35回全日本スキー選手権大会の回転と[3]、1960年の同大会の回転も制したが[6]、1960年スコーバレーオリンピックの代表選考では、若手にチャンスを与えるという全日本スキー連盟の意向により、代表には選ばれなかった[5]。このことが契機となり、杉山は1962年に選手生活を引退した[5]。
スキー指導者へ
編集競技を引退した1962年、コルティナダンペッツォオリンピックのスキー監督・野崎彊の勧めで、朝日新聞社・NHK主催のオーストリア人教師によるスキー講習会に、アシスタントとして参加[5]。教師の一人だったフランツ・デブリルの知遇を得て、オーストリアに渡るチャンスに恵まれる[5]。
オーストリアに渡った杉山は、オーバーエステライヒ州で同国アルペン・ナショナルチームのトレーニングに参加する[5]。さらに、フランツ・ホピヒラー教授と、シュテファン・クルッケンハウザー教授と知り合う機会を得る[5]。クルッケンハウザーは、当時国家検定スキー教師の養成機関・サンクリストフ・ブンデススポーツハイムの校長を務めていた[7]。しばらくここで本場のスキーを学びたいという杉山に対し、クルッケンハウザーは、国家検定スキー教師の資格を取得することを提案する[8]。杉山はこれを受け入れ、数年間の刻苦精励の末、1964年に日本人では戦後初の国家検定スキー教師の資格を得た[8]。
帰国後の1965年、杉山は長野電鉄のバックアップを得て、志賀高原の丸池に「杉山進スキースクール」を立ち上げる[8][9]。この時杉山が標語として掲げたのは、「まず楽しく、そして美しく、最後に力強く」というものであった[8][9]。これは、ヨーロッパ滞在中、現地の人たちがスキーを心から楽しみ、しっかりした技術で力強く滑っている姿に接し、強く感動したことに由来するという[8][9]。
だが、自らの名前を冠した学校を開いたことは、職業的なスキー教師として生きる決意を示すものであると同時に、IOC(国際オリンピック委員会)、JOC(日本オリンピック委員会)などが標榜する「自らの競技で得た名声を、商業的に利用してはならない」というアマチュア規定に明らかに反するものであった[10]。従って、必然的に杉山とアマチュアの団体である全日本スキー連盟(SAJ)との関係も悪化することとなった[10]。
日本職業スキー教師連盟(SIA)
編集1968年、杉山、西村一良、見谷昌禧、園部勝、黒岩達介らを中心として、「日本職業スキー教師連盟(SIA)」が発足[10][11]。初代会長には西村が就任する[12]。1971年には国際職業スキー教師連盟(ISIA)に加入が認められ[10]、1974年には日本スキー界の長老・猪谷六合雄が2代目会長となった[12]。1979年には、世界のスノースポーツ指導者が集まり、協議会や講習などを行う「インタースキー」の第11回大会が山形県の蔵王で開催され、杉山らの努力もあって成功裡に終わる[10]。1991年には第14回大会が長野県の野沢温泉で開かれ、SIAは、SAJに対抗する組織として、国際的な地位を徐々に築き上げていった[10]。杉山は、1996年から2009年まで会長を務めた[12]。
著作
編集著書
編集- 「オーストリアスキー ― ポイントと練習と実際」(1965年)
- 「杉山進のトップ・スキー ― オーストリア・スキーの技術と体験」(1965年、志賀仁郎と共著)
- 「スキー上達55のヒント ― どんな雪でも斜面でも」(1966年)
- 「スキーレッスン ― たくましいスキーをめざして」(1975年)
- 「遥かなスキー 人生で大切なことはすべて、雪と山が教えてくれた」(2014年)
訳書
編集- カール・コラー著「オーストリアのパラレルスキー」 (1967年)
- レッギー・シャラー著「日本人のための最新オーストリアスキー」 (1979年)
出典
編集- ^ a b c d e f g h 「スキージャーナル」2012年3月号、p.106
- ^ a b “「連載12 記録に見る日本のスキー競技史 「第32回全日本選手権・世界選手権大会・第33回全日本選手権」」”. 公益財団法人全日本スキー連盟. 2013年12月31日閲覧。
- ^ a b “「連載13 記録に見る日本のスキー競技史 「第34回全日本選手権・第7回冬季オリンピック・第35回全日本選手権」」”. 公益財団法人全日本スキー連盟. 2013年12月31日閲覧。
- ^ 「歴史ポケットスポーツ新聞冬季オリンピック」
- ^ a b c d e f g h 「スキージャーナル」2012年3月号、p.107
- ^ “「連載15 記録に見る日本のスキー競技史 「第38回全日本選手権・第8回冬季オリンピック・第39回全日本選手権」」”. 公益財団法人全日本スキー連盟. 2013年12月31日閲覧。
- ^ 「スキージャーナル」2012年3月号、pp.107-108
- ^ a b c d e 「スキージャーナル」2012年3月号、p.108
- ^ a b c “杉山スキー&スノースポーツスクール 代表 杉山進”. 杉山スキー&スノースポーツスクール. 2013年12月23日閲覧。
- ^ a b c d e f “「日本のスキーを語る 連載12 - 二つの団体」”. 志賀仁郎ホームページ. 2013年12月23日閲覧。
- ^ 「スキージャーナル」2012年3月号、p.109
- ^ a b c “SIA会長・副会長”. SIA公式サイト. 2013年12月23日閲覧。
参考文献
編集外部リンク
編集- 杉山スキー&スノースポーツスクール
- 杉山進 - Olympedia