朱基瑢
朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の独立運動家、教育者、政治家。制憲国会議員[1][2]。氏名の漢字表記は朱基容[3]、朱基溶[4]、朱基鎔[5]などもある。
経歴
編集慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身[9]。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山の刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。1927年に五山中学校に行って教務主任を務め、1928年に培花女子中学校の教員を経て、1932年9月1日に五山中学校の校長に赴任したが、1942年には日本当局により強制的に辞任させられた。その後は江原道鉄原郡に行って農場を経営し、解放後に再び社会活動を展開しながら、平安北道治安維持会副委員長を務めた[2]。1945年に曺晩植を中心に創立された朝鮮民主党の平安北道党委員長、ソウル市党副委員長などの幹部を務め、続いて五山中学校の校長にも招聘されたが、共産主義政策に不満を抱いて越南した[1][8][2]。
その後は南朝鮮過度政府の文教部普通教育局長を経て、1948年5月31日の初代総選挙に昌原郡選挙区から無所属で出馬し当選し、初代国会文教社会分科委員長に選出された。国会議員在職中は教育分野の根幹となる「教育法」の制定について関係者と数回の審議を重ねて、1949年12月に「教育法」の骨子案が公布された。その後は再び中央教育委員会委員、大韓教育連合会事務局長、五山学校理事などを歴任し、1953年に再び五山中高等学校の校長に就任した。1961年に定年退職後、1962年からは第6代五山学校財団理事長に就任した[1][8][2]。
脚注
編集- ^ a b c “주기용(朱基瑢)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年12月13日閲覧。
- ^ a b c d “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “공훈전자사료관 - 정운조”. e-gonghun.mpva.go.kr. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “3) 경상도 지방의 3·1운동”. 한국사 데이터베이스. 한민족독립운동사 3권 3·1 운동. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “주기용 (朱基鎔)”. 한국사 데이터베이스. 한국근현대인물자료. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “(52)신안 주씨(新安朱氏)-151,227명” (朝鮮語). 금융소비자뉴스 (2014年9月11日). 2023年12月13日閲覧。
- ^ “[역사속 부산사람] ⑪ 주기철 (1897~1944)” (朝鮮語). 부산일보 (2003年7月2日). 2023年12月13日閲覧。
- ^ a b c “주기용 - 디지털창원문화대전”. changwon.grandculture.net. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “[진해문화원 - 인물] 문화로 행복한 진해문화원입니다.” (朝鮮語). 진해문화원. 2023年12月13日閲覧。
- ^ “前五山中校長(전오산중교장) 朱基瑢氏別世(주기용씨별세)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1966年5月11日). 2023年12月13日閲覧。