本満寺

京都府京都市上京区にある日蓮宗の本山

本満寺(ほんまんじ)は、京都市上京区にある日蓮宗本山由緒寺院)の寺院山号は広布山(広宣流布山)。本尊十界曼荼羅塔頭が四院ある。

本満寺

本満寺 山門
所在地 京都府京都市上京区寺町通今出川上る二丁目鶴山町16
位置 北緯35度1分56.1秒 東経135度46分3.6秒 / 北緯35.032250度 東経135.767667度 / 35.032250; 135.767667座標: 北緯35度1分56.1秒 東経135度46分3.6秒 / 北緯35.032250度 東経135.767667度 / 35.032250; 135.767667
山号 広宣流布山
広布山
廣宣流布山
廣布山
宗派 日蓮宗
寺格 本山由緒寺院
本尊 十界曼荼羅
創建年 応永17年(1410年
開山 日秀
正式名 廣宣流布山 本願滿足寺(廣布山本滿寺)
札所等 洛中法華21ヶ寺
洛陽十二支妙見めぐり・丑(北北東)
文化財 紺紙金字一字宝塔法華経・観普賢経 9巻(重要文化財
法人番号 8130005002129 ウィキデータを編集
本満寺の位置(京都市内)
本満寺
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歴史

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応永17年(1410年)に本国寺から分立し、六老僧の一人日持を崇敬開山として玉洞妙院日秀(関白近衛道嗣の子)が開いた。当時は上京区元本満寺町(新町通今出川上る西入)付近にあった。

天文5年(1536年)に天文法華の乱で焼失し、に避難する。寺伝によれば、それから間もない天文8年(1539年)に関白近衛尚通が現在の地に移建し、後奈良天皇勅願寺となったという。ただし、移建の時期については異説もある。山科言継の日記『言継卿記』の記載によれば、天文14年(1545年)の時点で本満寺は「近衛殿近所」に存在していた。この「近衛殿近所」が具体的にどこを指すかは定かでないが、本満寺の現在地(寺町通り今出川上る)には該当しない。このことから、天正18年(1590年)頃、豊臣秀吉が京都の寺院を寺町通り沿いに強制移転させた時期に本満寺も移建されたとする説もある[1]

万治4年(1751年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府の祈願所となった。近世にはたびたび火災に遭っており、寛文元年(1661年)の火災、宝永5年(1708年)の宝永の大火天明8年(1788年)の天明の大火により焼失するが、その都度再建されている。慶応3年(1867年)4月13日・14日に新選組を脱走した田中寅蔵が当寺に潜伏するが見つかり、翌15日に切腹させられた。本堂は1911年明治44年)2月8日にも焼失し、1927年昭和2年)に再建された。

現住は64世・伊丹日顕貫首(大阪府大阪市雲雷寺より晋山)。莚師法縁(隆源会)縁頭本山。

境内

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文化財

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重要文化財

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  • 紺紙金字一字宝塔法華経・観普賢経 9巻

その他

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旧末寺

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日蓮宗1941年昭和16年)に本末を解体したため、現在では旧本山、旧末寺と呼びならわしている。

脚注

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  1. ^ 「同志社大学歴史資料館」の渡辺悦子の説による(参照:[1]2011年2月20日閲覧)。

参考文献

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  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979年
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂出版、1984年
  • 菊地明 編著『土方歳三日記 下』、筑摩書房、2011年