本法寺 (富山市)

富山市にある寺院

本法寺(ほんぽうじ)は、富山県富山市八尾町宮腰[1]にある法華宗陣門流の別院。山号は長松山。本尊は釈迦如来四菩薩

本法寺
本法寺(1909年発行『富山県写真帖』)
所在地 富山県富山市八尾町宮腰1580番地
位置 北緯36度33分11.6秒 東経137度9分45.3秒 / 北緯36.553222度 東経137.162583度 / 36.553222; 137.162583座標: 北緯36度33分11.6秒 東経137度9分45.3秒 / 北緯36.553222度 東経137.162583度 / 36.553222; 137.162583
山号 長松山
宗派 法華宗陣門流
寺格 別格寺院、北陸別院
本尊 三宝尊
創建年 1316年正和5年)
開基 日順
正式名 長松山本法寺
文化財 絹本著色法華経曼荼羅図 21幅(重要文化財)
絹本著色法華経曼荼羅図 1幅(県文化財)
法人番号 1230005002736 ウィキデータを編集
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由緒

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鎌倉時代1316年正和5年)(征夷大将軍宮将軍守邦親王)、鎌倉殿中問答で名高い日印の弟子日順の開山により越中国婦負郡楡原保城生(富山市八尾町城生)に創建された寺である。明和年間(1764年 – 1771年)現在地に移転している。現住職は高橋日啓聖人。本成寺塔頭持経院より晋山。

文化財

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法華経曼荼羅図(21幅のうち)
重要文化財
  • 絹本著色法華経曼荼羅図 21幅[2]
鎌倉時代末期に越中国射水郡放生津の海中から光輝きながら出現した木の中から出現したという伝説がある。
この伝説は、日本海交易の拠点放生津へ海運によりもたらされたことを神秘化したものと考えられている。
近年は、表具裏書にある「明応6年(1497年)」の年記に基づき、当時放津に滞在していた室町幕府第10代将軍足利義材の京都復帰運動に関連して放生津城主の越中守護代・神保長誠が寄進したという説が称えられている。
江戸時代になると、本法寺はこの曼荼羅図を江戸市中で開帳した(「武江年表」)。第10代将軍・徳川家治の側室が懐妊した際、安産祈願のため江戸城に数か月とどめ置かれた(「本法寺文書」)。
毎年8月6日に虫干し法要と絵解きが行われる。
なお放生津の歴史を紹介している射水市新湊博物館で「見宝塔品」の実物大の写真パネルが常設展示されている。
富山県指定有形文化財
  • 絹本著色法華経曼荼羅図 1幅
前項の法華経曼荼羅は現在22幅伝えられているが、序品第1軸は早くに失われたため、富山藩主・前田利次が後補させた。この軸のみ富山県指定文化財である。
富山市指定有形文化財
  • 法華経曼荼羅図古表具 一括
寛文年間に富山藩主前田利次が修補・改装させた絹本著色法華経曼荼羅図の表具。墨書のある軸木、曼荼羅伝来由緒の表具裏書などで構成される。

総本山・本山・別院

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総本山

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本山

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当寺以外の別院

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北陸教区の寺院

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脚注

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  1. ^ 婦負郡宮腰村、婦負郡黒瀬谷村宮腰、婦負郡八尾町宮腰
  2. ^ 絹本著色法華経曼荼羅図 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  3. ^ 教圓寺

外部リンク

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