本庄正則
本庄 正則(ほんじょう まさのり、1934年4月25日 - 2002年7月22日)は、日本の実業家。伊藤園の創業者。
ほんじょう まさのり 本庄 正則 | |
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生誕 |
1934年4月25日[1] 日本統治下朝鮮・釜山[2] |
死没 | 2002年7月22日(68歳没)[3] |
死因 | 呼吸不全[3] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 早稲田大学 |
職業 | 実業家 |
著名な実績 | 株式会社伊藤園の創業 |
配偶者 | 照子 |
子供 | 大介、洋介、竜介 |
親 | 父:源次、母:アツ子 |
親戚 | 弟:八郎、甥:周介 |
経歴
編集略歴
編集兵庫県神戸市出身[3]。1959年早稲田大学第一法学部を卒業して東都日産モーターで自動車セールスマンをしていたが、脱サラし日用品の訪問販売会社「日本ファミリーサービス株式会社」を1964年に埼玉県で起業した[4]。同社取扱商品の中の一つであった茶葉製品に注力するかたちで、1966年6月に産地直送の販売手法による「フロンティア製茶株式会社」を静岡県静岡市神明町(現・静岡市葵区神明町)に設立[3][4]。茶葉製品市場に参入した[4]。その後、東京・上野にあった茶問屋「釜邦」より「伊藤園」の商号を200万円で譲り受け[5]、1969年5月より現社名の「株式会社伊藤園」に商号を変更している。同年6月、株式会社本庄商事(旧・日本ファミリーサービス株式会社)および合資会社ビーエー商会から緑茶事業の営業譲渡を受け、生産部門を確保し製茶事業にも参入した[6]。
1966年に手形詐欺事件に巻き込まれ、約5,000万円の不良債権を抱えるなど、創業期の経営は順風満帆とは言えなかったが[7]、量り売りが主流であった当時の茶葉販売において、1972年日本初の真空パッケージ入り茶葉の製品化に成功した[5]。さらに埼玉銀行(現・りそな銀行、埼玉りそな銀行)より資金を借り入れ、1974年静岡県榛原郡相良町(現・牧之原市)に生産工場と研究所を建設し[8]、流通業からメーカーへの転換を契機に業績を拡大していった[5]。1981年に缶入りウーロン茶、1985年に缶入り緑茶を、世界で初めて発売[5]。1989年発売した缶入り日本茶「お〜いお茶」が大ヒット商品となり、1998年には伊藤園は東証第一部上場企業にまで成長した[3]。
伊藤園の出資者のひとりであった[3]政治家の小渕恵三とは伊藤園の創成期に出会い、親交が深く家族ぐるみでの付き合いであった[9]。また、小渕恵三の死後、長女で衆議院議員の小渕優子が政治家を志す決断をしたのは、本庄の言葉がきっかけであったと小渕優子が回顧している[10]。
年譜
編集- 1934年 - 父の赴任先であった日本統治時代の朝鮮・釜山府(現・韓国・釜山広域市)にて生まれる[1]。
- 1936年 - 家族とともに神戸市へ戻る[1]。
- 1941年 - 神戸市立下山手小学校(現・神戸市立山の手小学校)入学[1]。
- 1947年 - 神戸市立生田中学校(現・神戸市立神戸生田中学校)入学[11]。
- 1950年 - 兵庫県立湊川高等学校入学[11]。
- 1953年 - 同志社大学入学[11]。
- 1955年 - 早稲田大学第一文学部入学[11]。
- 1957年 - 早稲田大学第一法学部へ転部[11]。
- 1959年 - 早稲田大学第一法学部卒業[12]。東都日産モーター入社[12]。
- 1964年 - 日本ファミリーサービス株式会社を設立[4]。代表取締役専務に就任[13]。
- 1966年 - フロンティア製茶株式会社(現・伊藤園)を設立[4]。代表取締役専務に就任[13]。
- 1969年 - 「伊藤園」の暖簾を取得し、フロンティア製茶を「株式会社伊藤園」へ商号変更[12]。代表取締役社長に就任[13]。小渕恵三に出会う[14]。
- 1984年 - 在東京ペルー共和国名誉領事に就任[15]。
- 1988年 - 株式会社伊藤園代表取締役会長に就任[16]。
- 1990年 - 在横浜スリランカ民主社会主義共和国名誉総領事に就任[17]。
- 1993年 - ゴルフ場グレートアイランド倶楽部開業[18]。自らコース設計も行う。
- 1996年 - 本庄国際奨学財団を設立[17]。
- 1997年 - 東京商工会議所副会頭に就任[19]。
- 2002年 - 逝去[3]。
人物
編集- 性格は豪快で親分肌である一方、シャイで照れ屋であった[20]。また、財界の友人たちからは、 「一途に究めるタイプ」「気配りの天才」「義理、人情を重んじる人」として知られていた[21]。例えば、親交のあった東映元社長の岡田茂は、「本庄君は、頼まれたら嫌とは言えない人間だった」と評している[22]。また、同じく親交のあったオンワード樫山元会長の馬場彰は、「義理人情の男」と評している[23]。
- 学生時代には柔道部に所属し、高校2年生で二段を取得していた[20]。
- ゴルフ好きで、自らコース設計に参加し千葉県にゴルフ場(グレートアイランド倶楽部)を作るほどであった。また、腕前もプロ級でありホールインワンを8回達成。24歳でゴルフを始めてから1年ほどでハンデキャップ8、4年でハンデキャップ1という実力であった[21]。
- 東急グループの五島昇を尊敬し、プライベートでゴルフやトローリングに出かけるなど親交があった[24]。その陶酔ぶりは、本庄がゴルフ場作る際に五島の名から「ファイブ・アイランド」という名前にしようとしたほどであったが、最終的に「アイランド」のみ残し「グレートアイランド倶楽部」と命名した[24]。
親族
編集- 弟・本庄八郎 - 伊藤園代表取締役会長
- 長男・本庄大介 - 伊藤園代表取締役社長
- 次男・Yosuke Jay Oceanbright Honjo(本庄洋介) - 伊藤園取締役、同アメリカ法人社長
- 三男・本庄竜介 - グレートアイランド倶楽部代表取締役社長
- 甥・本庄周介 - 伊藤園代表取締役副社長
・小出信介 - 小出公認会計士税理士事務所代表
脚注
編集- ^ a b c d 財界2003、470頁。
- ^ 財界2003、31頁。
- ^ a b c d e f g “日本初の缶入り飲料茶を発売した伊藤園会長、死去”. 2020年3月30日閲覧。
- ^ a b c d e 大倉2012、16-20頁。
- ^ a b c d 丸山裕貴 (2018年8月10日). “「伊藤園」を日本一へと導いた、3つの出会いの物語”. Business Network Lab. sansan. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “第54期有価証券報告書” (PDF). 伊藤園 (2019年7月25日). 2020年4月17日閲覧。
- ^ 財界2003、92頁。
- ^ 財界2003、87-89頁。
- ^ 財界2003、307-312頁。
- ^ 小渕優子(2003年)「芯が強くて、誠実で、人と人との縁を大切にした人」『お茶に一生をかけた男 本庄正則の生涯』、「財界」編集部 編著、財界研究所、327-333頁。
- ^ a b c d e 財界2003、471頁。
- ^ a b c 財界2003、472頁。
- ^ a b c “創立者について”. 本庄国際奨学財団. 2020年4月17日閲覧。
- ^ 財界2003、473頁。
- ^ 財界2003、475頁。
- ^ 財界2003、476頁。
- ^ a b 財界2003、477頁。
- ^ “倶楽部概要”. グレートアイランド倶楽部. 2020年4月17日閲覧。
- ^ 財界2003、478頁。
- ^ a b 財界2003、419頁。
- ^ a b “【伊藤園特集】気配りと誠意を尽くす人柄が ビジネス抜きで語り合える男同士の友情を生む/本庄正則の人的(企業家倶楽部1997年5月号 特集第5部)”. 企業家倶楽部. 企業家倶楽部 (1997年4月27日). 2021年2月11日閲覧。
- ^ 財界2003、424頁。
- ^ 馬場彰(2003年)「男気のある人、気持ちのいい人」『お茶に一生をかけた男 本庄正則の生涯』、「財界」編集部 編著、財界研究所、354-360頁。
- ^ a b 財界2003、424-425頁。
参考文献
編集- 「財界」編集部『お茶に一生をかけた男 本庄正則の生涯』財界研究所、2003年。
- 大倉雄次郎『伊藤園の"自然体"経営:伝統と最新手法が織りなすイノベーション』日刊工業新聞社〈B&Tブックス〉、2012年。ISBN 978-4-526-06963-5。