本多敏樹
日本の政治家
本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日[1] - 1968年2月8日)は、日本の政治家。第2-4代岡崎市長(3期)。
本多 敏樹 ほんだ としき | |
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生年月日 | 1874年2月27日 |
出生地 | 愛知県岡崎市 |
没年月日 | 1968年2月8日(93歳没) |
死没地 | 愛知県岡崎市 |
出身校 |
札幌農学校卒業 東京帝国大学法科大学中退 |
前職 | 北海道庁技師 |
親族 | 兄・本多忠敬(貴族院議員) |
第2-4代 岡崎市長 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1918年12月17日 - 1930年12月5日 |
経歴
編集愛知県岡崎市生まれ[2]。学習院、札幌農学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。勲六等単光旭日章受章。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発にとりくむ。勲五等瑞宝章を受章[3]。
1918年(大正7年)7月12日、郷里岡崎の初代市長・千賀又市が公務執務中にたおれ、その日のうちに49歳で死去。市が設けた協議会や委員会が打診した新市長の候補者はいずれも固辞し、米騒動による混乱をはさみ(岡崎市では8月14日、15日に発生)、選考作業は難航した。結局市内に好適な人物は見あたらず、北海道にいる本多と香川県丸亀高等女学校教諭の岡田辰雄が最終的な候補とされた[4]。11月12日、本多が第2代市長に選任された。12月4日、裁可[5]。12月17日、市長就任[6]。
1919年(大正8年)3月、六ツ美村(現・岡崎市中之郷町)の浄妙寺の女性と結婚[7]。
1922年(大正11年)、三河郷友会長に就任[3]。3期市長を務め、1930年(昭和5年)12月5日、任期満了で退任した[8]。
戦後は1947年(昭和22年)4月5日に行われた第1回公選岡崎市長選挙に出馬するも落選。1956年(昭和31年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[1]。1958年(昭和33年)11月2日、4選を狙う竹内京治市長の推薦母体である愛市連盟が発足すると、本多は同団体の名誉会長に就任する[9]。翌年の市長選で竹内は僅差で太田光二に敗れる。
主な業績
編集脚注
編集- ^ a b 『新編 岡崎市史 総集編 20』 216頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』 337頁。
- ^ a b c 『愛知新聞』1968年2月9日
- ^ 『新編 岡崎市史 近代 4』 789-790頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』 605頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』 486頁。
- ^ 福岡寿一編『めおと善哉』東海タイムズ社、1958年8月5日、79頁。
- ^ なお市長退任直後の1930年12月20日、日本最初の国営バスである「省営バス岡多線」が岡崎市内に開通している。
- ^ 『愛知新聞』1958年10月23日、11月4日。
- ^ “一般県道岡崎幸田線(殿橋)”. 小原建設株式会社. 2021年10月4日閲覧。
- ^ 明代橋の架け替え工事は1920年11月2日に完成した。しかし1932年7月の豪雨で流されたため、それから5年後の1937年に現在の明代橋が作られた。
- ^ 板屋町と上六名を結ぶ明神橋は、1929年6月3日に竣工した。幅員は約5.5メートルであった。
- ^ 『新編 岡崎市史 近代 4』 873-874頁。
- ^ 第3回 岡崎公園 | 岡崎市 市制100周年記念サイト
- ^ 岡崎美術展(通称・岡展)は現在も続いており、2018年10月時点で71回を数える。
- ^ 岡崎市立三島小学校の歴史
- ^ 三島学区 | 岡崎まちものがたり学区ページ | 岡崎市 市制100周年記念サイト
- ^ 『日本の歴代市長 第二巻』 461頁。
- ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』 492頁。
参考文献
編集- 『新編 岡崎市史 近代 4』新編岡崎市史編さん委員会、1991年3月30日。
- 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日。
- 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日。