本多忠誠
江戸時代中期から後期にかけての大名
本多 忠誠(ほんだ ただしげ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。陸奥国泉藩の第3代藩主。官位は従五位下・河内守、越中守。忠以系本多家6代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦11年(1761年)1月 |
死没 | 天保3年3月8日(1832年4月8日) |
改名 | 勇次郎(幼名)、忠誠 |
戒名 | 徳照院殿泰岸祥雲大居士 |
墓所 | 東京都墨田区向島の弘福寺 |
官位 | 従五位下河内守、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 陸奥泉藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 | 父:本多忠籌、母:後藤氏 |
兄弟 | 忠誠、忠雄、忠堅、松浦忠、忠順、荒木忠純、大田原清昭室 |
妻 | 正室:板倉勝暁の娘・八百子 |
子 |
忠知、松平忠衛、遠山景祚、忠慎、安藤忠隆、荒木忠寛、忠弟、忠久、秋田貞行、千子(稲葉正盛正室)、俊子(小谷忠貞室)、豊子(荒木忠純養女) 養女:曽根子(山口弘致正室) |
略歴
編集宝暦11年(1761年)1月、第2代藩主・本多忠籌の庶長子として誕生。正室所生の弟・忠雄が世子となっていたが、天明5年(1785年)に父によって廃嫡され、代わって忠誠が世子となる。寛政11年(1799年)10月23日、父の隠居により家督を継いだ。
藩政においては父の政策を受け継ぎ、農村救済や学問の奨励、さらに藩財政再建を目的とした倹約を行なっている。文化12年(1815年)7月5日、長男・忠知に家督を譲って隠居する。天保3年(1832年)3月8日に死去した。享年72。
系譜
編集父母
- 本多忠籌(父)
- 後藤氏 ー 側室(母)
正室
- 八百子 ー 板倉勝暁の娘
側室
- 美保子(美代)
子女
- 本多忠知(長男)生母は八百子(正室)
- 松平忠衛
- 遠山景祚
- 本多忠慎(四男)生母は美保子(側室)
- 安藤忠隆
- 荒木忠寛
- 本多忠弟
- 本多忠久
- 秋田貞行
- 千子 ー 稲葉正盛正室
- 俊子 ー 小谷忠貞室
- 豊子 ー 荒木忠純の養女
養女