木下勇 (陸軍軍人)

日本の陸軍軍人

木下 勇(きのした いさむ、1893年(明治26年)11月4日[1][2] - 1945年(昭和20年)7月7日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最後の功一級金鵄勲章受章者。

木下 勇
生誕 1893年11月4日
日本の旗 日本 福井県
死没 (1945-07-07) 1945年7月7日(51歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1914 - 1945
最終階級 陸軍中将
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経歴

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福井県出身[1][2][3]東京府立一中名古屋陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校本科を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第14連隊付となる[1][4]1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し騎兵第14連隊中隊長に就任[1][2][3]

1926年(大正15年)12月、陸軍騎兵学校教官となり、ドイツ駐在、騎兵第11連隊付、騎兵第1旅団参謀、陸大教官、騎兵監部員などを歴任し、1937年(昭和12年)8月、騎兵大佐に昇進[1][3]。同月、第1軍参謀に就任し、1938年(昭和13年)8月、騎兵第15連隊長に就任し日中戦争に出征[1][2][3]1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し騎兵第3旅団長となり満州に駐屯[1][2][3]

1941年(昭和16年)3月、第11軍参謀長となり中国に出征[1][2][3]1942年(昭和17年)12月、第13軍参謀長となり、1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。同年11月、陸軍航空総監部付となり、第4飛行師団長、第2飛行師団長を歴任しフィリピンの防空を担当[1][2][3]。その後、レイテ沖海戦では、レイテ島への独断による第二次航空総攻撃を決行し、それを巡って第4航空軍司令官・富永恭次中将と対立・更迭され、1944年(昭和19年)11月、南方軍総司令部付となる[1][2][3]。翌月、第55航空師団長に就任しシンガポールの防空を担当[1][2][3]

1945年(昭和20年)6月、東部軍管区司令部付となった[1][2][3]。翌月7日、山梨県上空で搭乗機が墜落し戦死[1][2][3]。没後、功一級金鵄勲章を受章した。

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、53頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸軍将官辞典』260頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』350頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』348、350頁。
  5. ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。