朝日軍道(あさひぐんどう)は、かつて、置賜地方庄内地方を結んでいた山岳道路飛地となっていた上杉氏の所領を連絡する目的で使われた。

ルート

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歴史

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朝日軍道は、全長65kmにのぼる日本の歴史の中でも有数の山岳縦貫路である。しかも、2000m級の朝日連峰を通る軍事道路である。

朝日軍道は、上杉景勝の家臣、直江兼続によって開削された。1598年(慶長3年)、景勝は豊臣秀吉の命により、越後から蒲生氏郷が治めていた会津へと移封された。これにより、上杉の所領は、会津、仙道置賜庄内佐渡の120万石となった。佐渡は別として庄内地方以外の各所領は地続きになっていたが、庄内地方のみ飛地となっており、景勝の居城である会津若松城から庄内に向かうには、必ず他国を経由せねばならなかった。

特に、村山地方を領有していたのは最上義光であり、上杉と最上は、お互いに領内の動向に目を光らせる宿敵の関係にあった。一方の越後も上杉の旧領であったため、新領主となった堀秀治は、上杉の動向に目を光らせていた。そこで、米沢城を居城とし、置賜を領有していた上杉氏家臣の直江兼続は、置賜と庄内を直接結ぶ道路として、朝日連峰の嶺を伝い、途中麓に降りることのない、馬が通れる軍道を秘密裏に開削することにし、苦労の末に1年あまりで完成させた。

朝日軍道のルートは、もともと長井葉山、大朝日岳などが修験道聖山として崇拝されており、山伏が行きかっていたことから、その間道を整備し、接続することで結ばれたため、比較的短時間で完成することが出来たが、それでも、数百人にも及ぶ人夫が動員されたといわれる。なお、上杉家に残された文書では、朝日軍道ではなく「庄内新道」とされている。

朝日軍道は秘密裏に作られたが、大規模な工事であったがゆえに、早晩大沼(現朝日町大沼)浮島稲荷神社別当の大行院により、最上義光の耳にも入った。義光はこの道路を非常に警戒し、特に、軍事の拠点にもなりうる番小屋の設置や、番人の配置には神経を尖らせたと言う。この道路は、人の往来の他にも荷駄による物資輸送にも使われた。

この軍道が歴史の表舞台に登場したのは、関ヶ原の戦いと同時に起こった慶長出羽合戦の時である。この時、上杉方の酒田城主志田修理義秀は、六十里越街道を越えて、最上方の白岩城(現寒河江市白岩)を攻略していたが、関ヶ原の戦いにおける東軍勝利の報に接し、直江兼続を総大将とする上杉軍は、撤退戦の末、米沢城に帰還した。

その際、志田軍には、帰還命令が遅れたため、最上領内に取り残されることとなってしまった。そこで、志田軍は大井沢(現西川町大井沢)から大朝日岳まで戻り、11月のすでに冠雪した朝日軍道を通って、酒田城まで帰還することに成功した。これが表舞台に登場した朝日軍道である。

その後、庄内地方は最上軍に攻められ、ついには酒田城を攻め落とされる。そして関ヶ原の戦いの仕置きにより、上杉景勝は所領を大幅に減らされ、米沢30万石のみとなってしまった。これにより、置賜地方と庄内地方を連絡する朝日軍道の必要性はなくなり、あっという間に廃道となってしまった。

外部リンク

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