朝日映画製作
朝日映画製作株式会社(あさひえいがせいさくかぶしきがいしゃ)は、かつて存在した日本の映画製作会社。
概要
編集1937年から1943年まで「朝日映画製作株式会社」、藝術映画社など8社を併合して「株式会社朝日映画社」となり、1945年敗戦の際に一旦解散した後、同年12月再発足。1947年に改称して株式会社新世界映画社[1]として、1949年まで存在した。
主にニュース・記録映画、アニメーション・影絵映画を製作した。
本項では、統合後の株式会社朝日映画社と社名変更後の株式会社新世界映画社についても触れる。
略史
編集前史─ニュース映画から本格的記録映画まで
編集- 1924年4月、朝日新聞社は、ニュース映画「朝日映画週報」を制作、さらに、1934年7月「朝日世界ニュース」を製作して全国の映画館で上映していた。製作は名目上、朝日新聞社となっていたが、実際はPCLのニュース映画部門が担当した。
- 1936年6月19日、朝日新聞社は北海道の皆既日食を記録し、『黒い太陽』(19分・16mm・白黒)を製作。撮影を後に原爆記録映画に参加する三木茂、後の1964年東京オリンピック記録映画をつくる林田重雄が担当した。1,200mmの大望遠鏡を五藤光学研究所が提供した[3]。
朝日映画製作株式会社を設立
編集- 1937年9月、東宝映画設立時に、朝日新聞社がPCLのニュース映画部門を買収し、朝日映画製作株式会社を設立した[4]。同年、『ソ聯邦の軍備』、日本赤十字社後援『戦ふ女性』(22分)[4]、大石郁雄作画『泳げや泳げ』(ナレーション・澤登翠)[5]を製作。代表=石井光次郎、専務=真名子兵太[6]。
- 1940年、前年に大日本雄辯会講談社が公募・選定した『出征兵士を送る歌』(作詞=生田大三郎、作曲=林伊佐緒)の歌唱指導映画『出征兵士を送る歌』(8分)[7]。荒井和五郎・飛石仲也の影絵映画『お蝶夫人の幻想』(12分、白黒、独唱=三浦環)公開。この年で「朝日世界ニュース」終了。
- 1941年、荒井和五郎・飛石仲也の影絵映画『ジャックと豆の木』(15分・16mm・白黒・サイレント)公開。
- 1942年、荒井和五郎・飛石仲也の影絵映画『かぐや姫』(26分 白黒)公開。
他社を吸収、株式会社朝日映画社に統合
編集- 1943年7月、芸術映画社など8社を吸収して、株式会社朝日映画社となる。日本映画社、理研科学映画、電通映画社とともに戦時中を代表するプロダクションとなる。同年、荒井和五郎、飛石仲也の影絵アニメーション映画『ニッポンバンザイ』(11分・35mm・白黒)公開。
- 1944年、地方の繊維工場で働く女子工員が精密機械の生産に挑む姿を描く森永健治郎監督、厚木たか脚本の記録映画『転換工場』(18分・35mm・白黒)公開[8]。11月、横山隆一原作、持永只仁撮影、前田一動画のアニメーション『フクちゃんの潜水艦』公開。
- 1945年、女子挺身隊の徒労感を浮き彫りにした、水木荘也監督、厚木たか構成『わたし達はこんなに働いてゐる』(18分)。
戦後の再出発
編集- 1945年、戦後の短編映画第1作として、治安維持法違反によって獄中にした人々の解放を捉えたニュース映画『君達は喋ることが出来る』[9]を製作。同年、『戦災者の声』、『明日の婦人達』、労働歌をテーマとしたプロパガンダ映画『腕をくんで』などを製作するも、いずれも、左翼的すぎて映画館に受け入れられなかったため、一旦解散する[4]。同年12月、従業員の反対と占領軍の命令で解散を取り止め、再発足。12月1日に発足した「映画製作者連合会」に劇映画3社、ニュース短篇教育映画3社とともに加盟[10]。
- 1946年3月、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞から役員を迎えて入れて増資を行う。製作局長に統合した芸術映画社の元社長・大村英之助が就任[4]。同月には、「新世界ニュース」を製作した。従業員数270名の大所帯であるため、経営が改善せず、9月に大村英之助は退任。この頃、池真理子、渡辺はま子、柴田つる子、松原操ら歌手が総出演する演芸映画『麗人歌合戦』(20分・35mm・白黒)を製作。
新世界映画社改称から解散まで
編集出典・脚注
編集- ^ 伊藤武郎が1953年に設立した独立プロとは別
- ^ 1941年発足したニュース映画中心の日本映画社とは別。
- ^ 産業技術史資料情報センター
- ^ a b c d ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から 吉原順平II 教育映画・文化映画・ドキュメンタリー映画——第二次大戦の終わりまで(承前)2 戦時短編の思想——「映画法」と「文化映画」
- ^ Digital Meme
- ^ 朝日映画製作株式会社
- ^ 戦時下のスクリーン第一弾
- ^ 上映会情報発掘された映画たち2008
- ^ 作家の宮本百合子は、「文藝春秋」1946年9月号〜11月号に短期連載した小説「風知草」で、この映画のタイトルに似たフレーズを使い、「『君達は話すことが出来る』と、今は工場の横庭でかたまって話している人々の間を、重吉(引用者注=夫の宮本顕治のこと)は歩いて来る」と書いている。「新日本文学」1948年8月号に発表した「三年たった今日——日本の文化のまもり——」で、「『君たちは話すことができる』一巻は、日本の民主化の過程に忘れることのできない記念品となった」「このニュース映画は、素朴な描写のうちに溢れる濤のような自由への渇望を語っていた。」と書いた。
- ^ 社団法人日本映画製作者連盟の歴史