朝倉氏景 (3代当主)
越前朝倉氏第3代当主
朝倉 氏景(あさくら うじかげ)は、南北朝時代の武将。朝倉氏の第3代当主。第2代当主・朝倉高景の子。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 暦応2年/延元4年(1339年) |
死没 | 応永11年12月28日(1405年1月28日) |
改名 | 孫次郎(幼名)→氏景 |
別名 | 孫右衛門 |
戒名 | 大功宗勲・勝勲 |
官位 | 美作守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 斯波高経→斯波義将 |
氏族 | 朝倉氏 |
父母 | 父:朝倉高景 |
兄弟 | 氏景、阿波賀茂景、向久景、三段崎弼景 |
子 | 貞景、東郷正景、中島景康 |
生涯
編集父・高景と同じく、文和4年(1355年)2月15日の京都の合戦において[1]、貞宗(相州貞宗か)の名刀で奮戦し、足利尊氏から偏諱を賜り、氏景と称するようになったとされるが、この時朝倉氏は南朝側に属して尊氏と敵対していたため、尊氏が氏景に偏諱を与えたという話は怪しい[2]。
その後、貞治の変で主君・斯波高経が室町幕府から討伐の対象とされると、父・高景が幕府側に通じて所領を安堵され、一時期斯波氏を離れている。康暦年間に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の家臣に復帰した[3]。
その後、摂津の合戦でも戦功を挙げ、足利義満から「大功」の法名を賜ったとされる(『朝倉始末記』末巻「日下部系図」より)。
しかしその後、朝倉氏は幕府や主筋たる斯波氏から冷遇されるようになり、明徳年間の斯波氏重臣を記した「相国寺供養記」に氏景など朝倉氏の名前は記載されていない。
応永8年(1401年)、弘祥寺に仏殿を建立し、一乗谷に熊野権現を勧請した。これが朝倉家の一乗谷と関係する最初の事例である[1]。