望月 昌頼(もちづき まさより)は、戦国時代武将信濃国国人望月城主。

 
望月 昌頼
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 昌頼→宗齢(号)
官位 遠江(受領名)
氏族 望月氏
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略歴

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望月氏滋野氏の流れを汲み海野氏根津氏と共に「滋野三家」と呼ばれる。

甲斐国武田晴信(信玄)が、天文11年(1543年)に信濃諏訪郡を制圧すると、翌天文12年(1544年)には佐久小県郡への侵攻を開始する。昌頼は長窪城主の大井貞隆と共に甲斐武田氏に抵抗するが、同年9月19日には長窪城が落城して貞隆は捕縛され(『高白斎記』)、昌頼も本拠の望月城から逃れたと考えられている。

その後は貞隆と同じ岩村田大井氏で小諸城主・大井高政を頼って小諸へ逃れるが(天文13年高野山蓮華定院文書)、ほどなく出家。旧領復帰を果たす事なく、天文14年(1546年)あるいは翌天文15年(1547年)の文書を最後に消息不明となる。

昌頼の没落後、武田氏に帰順した望月信雅が望月氏の惣領となった[1]

脚注

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  1. ^ 柴辻俊六; 平山優; 黒田基樹 ほか 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年、658頁。ISBN 978-4-490-10860-6 

参考文献

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