有馬 頼次(ありま よりつぐ)は、江戸時代前期の武士。丹波福知山藩主および筑後久留米藩主・有馬豊氏の三男[1]。分家して駿河駿府藩主の徳川忠長に仕え、1万石を給された。

 
有馬頼次
時代 江戸時代前期
生誕 慶長16年(1611年
死没 慶安2年3月9日1649年4月20日
改名 頼泰(初名)
戒名 宗無
官位 加賀守、伯耆
主君 徳川忠長
氏族 摂津有馬氏
父母 父:有馬豊氏、母:蓮姫
兄弟 忠頼信堅頼次
養子吉政
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生涯

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元和3年(1617年)、7歳で将軍徳川秀忠に初謁。翌、元和4年(1618年)に徳川忠長に付けられた。その後忠長のもとで1万石を給され、寛永5年(1628年)には従五位下加賀守に叙された。しかし、寛永9年(1632年)に忠長が改易されると、頼次も勘気を蒙り、父の豊氏に預けられた。

寛永13年(1636年)12月10日に赦免され、寛永17年(1640年)10月15日には将軍徳川家光に拝謁している。慶安2年(1649年)3月9日、39歳で死去。麻布の祥雲寺(のち渋谷に移転)に葬られた。

系譜

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有馬豊氏の3男とされるが、信堅を入れず次男とされることもある。

建部光重の長男で[1]、生母は有馬豊氏の養女(有馬則氏の娘)[2]。外祖父有馬豊氏の許にあり、成長後に有馬頼次の養子となる[1]。吉政は紀州徳川家の徳川頼宣に仕え、以後代々紀州徳川家に仕えた。吉政の後は養子・義景(紀州藩家老・正木為永の子)が継いでいる。義景の子、有馬氏倫は将軍となった徳川吉宗に側衆として仕え、享保12年(1727年)には伊勢西条藩1万石の譜代大名に昇格した。

脚注

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  1. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第四百七十
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十九

参考文献

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