有川 鷹一(ありかわ たかいち、1873年明治6年)4月21日[1][2] - 1955年昭和30年)1月31日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

編集

山口県出身[1][2][3]。旧長府藩士・有川常友の長男として生れる[1]山口高等中学校中退を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業[1][2][3]。同年5月、工兵少尉に任官し工兵第5大隊付となる[1][3]。1898年(明治31年)12月、陸軍砲工学校高等科(6期)を優等で卒業し陸軍築城部本部付となる[3][4]

1899年(明治32年)8月、ドイツ駐在となり、砲工学校教官を経て、1904年(明治37年)6月、第8師団兵站電信部長に就任して、同年10月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征し、この間、第3軍司令部付(兵站電信部長)を務めた[1]。1906年1月、陸大教官に就任し、臨時軍用気球研究会委員を兼務し、1910年(明治43年)11月、工兵中佐に進級[1][3]

1914年(大正3年)5月、陸軍気球隊長となり、同年8月、臨時航空隊長に転じ、同年12月まで青島の戦いに出征し、陸軍初の航空部隊の実戦を指揮した[1][2][3]。1915年(大正4年)5月、工兵大佐に昇進[1][3]。同年12月、航空大隊長に就任[1][3]。1916年(大正5年)5月、交通兵団司令部付となり、1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級し陸軍航空学校長に就任した[1][2][3]。1923年(大正12年)8月、陸軍中将に進級と同時に待命となり、同年9月予備役に編入された[1][2][3]

1940年(昭和15年)4月に退役し、その後、東洋鋼鈑常務、中島飛行機副社長を務めた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

編集
位階
勲章等

親族

編集
  • 妻 有川ツタ子(尾崎宗達の娘)[1]

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、10頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』39頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』118-119頁。
  4. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。10、636頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
  6. ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
  7. ^ 『官報』第4341号「叙任及辞令」1897年12月18日。
  8. ^ 『官報』第5295号「叙任及辞令」1901年3月1日。
  9. ^ 『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
  10. ^ 『官報』第3476号「彙報-陸海軍」1895年2月2日。

参考文献

編集
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。