有友正親
明治期の篤農家、実業家、政治家
有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月30日(安政2年10月21日[1])‐ 1913年(大正2年)2月15日[1][2][3]) は、明治期の篤農家[4]、名望家[5]、実業家、政治家。衆議院議員[6]。族籍は愛媛県平民[6]。
経歴
編集伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市) の檜田家に生まれ、9歳で同郡菅田村(現大洲市)の有友平右衛門(正盛)の養子となる[1][7]。藩校で学んだが、ほとんどは独学で学問を習得した[7]。農業を営む[6]。
明治維新後、喜多郡租税掛、愛媛県地租改正顧問、戸長、学務委員、県勧業委員などを務めた[1][2][3][7][8][9]。1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に入党[7]。1884年(明治17年)5月、愛媛県会議員に選出された[1][2][7]。松方デフレで困窮した農民たちを代弁して、県の四国新道開削計画に反対した[1][2]。1887年(明治20年)三大事件建白運動では喜多郡の署名代表者となった[1][2]。その他、菅田村会議員、同議長、喜多郡連合村会議員、喜多郡会議員、同議長、徴兵参事員などを務めた[1][3][7][8]。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙で愛媛県第3区に改進党所属で出馬して当選し、第2回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続2期務めた[1][2][3][8][10]。
その他、菅田村長、菅田村農会長、喜多郡農会長、愛媛県農会長、喜多郡蚕糸業組合長、肱川会社取締役、大洲商業銀行取締役、大洲製糸会社社長などを務めた[1][2][3][7][8][10]。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k 『愛媛県史 人物』30-31頁。
- ^ a b c d e f g 『愛媛県百科大事典』上、29頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』29頁。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月29日閲覧。
- ^ 『帝国名望家大全』328頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月16日閲覧。
- ^ a b c 『帝国議会衆議院議員名鑑』37頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『愛媛県紳士列伝 第1編』167-170頁。
- ^ a b c d 『衆議院議員略歴』351頁。
- ^ 『日本帝国国会議員正伝』356-358頁。
- ^ a b 『大正過去帳』10頁。
- ^ 曽我鍛『井上要翁伝』伊予鉄電社友会館維持会、1953年、851頁。
参考文献
編集- 辻本仁兵衛編『帝国議会衆議院議員名鑑』文栄社、1890年。
- 木戸照陽編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年。
- 吉野民司編『帝国名望家大全』吉野民司、1895年。
- 奥村次郎編『愛媛県紳士列伝 第1編』奥村次郎、1900年。
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 『第一回乃至第十九回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1936年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 『愛媛県百科大事典』上、愛媛新聞社、1985年。
- 『愛媛県史 人物』愛媛県史編纂委員会、1989年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。