月岡朝太郎
日本の自転車競技選手
経歴
編集長野県下水内郡岡山村(現飯山市)に生まれ、1928年に上京し、法政大学専門部第二部政治経済学科卒業後、様々な職業を転々とする[1]。1937年月刊雑誌『鉱業冶金』の編集長となり、1941年三井鉱業北越鉱山事業部長となる。また1937年には、日本自転車競技連盟関東支部が主催した第1回関東自転車断郊競走の実用車部門に出場したのをきっかけに、自転車競技に取り組み、1940年に予定されていた東京オリンピックの候補選手になった[1]。
戦後、1947年に雑誌『自転車』を創刊、1949年には大宮競輪場の開設と同時に競輪予想紙「競輪新聞」(現在の赤競)を創刊。1950年に日刊プロスポーツ新聞社を創設して初代社長となった[2]。また、1951年に東京都自転車競技連盟を創立して理事長となった[3]。
日本アマチュア自転車競技連盟(日本自転車競技連盟の前身のひとつ)専務、副会長などを務め、海外に派遣される日本選手団の団長をしばしば務めた [1][4]。
1978年には、日刊プロスポーツ新聞社社長職を息子に譲り、会長となった[2]。
おもな著書
編集- 昭和史の花魁、日刊プロスポーツ新聞社、1971年
- 自転車競走、日刊プロスポーツ新聞社、1978年
脚注
編集- ^ a b c d 信濃毎日新聞社 編「必ずよい時がくる 月岡朝太郎」『百人百話』信濃毎日新聞社、1972年2月20日、317-320頁。
- ^ a b “沿革 History”. 日刊プロスポーツ新聞社. 2015年12月10日閲覧。
- ^ “歴史 ☆自転車部の始まり☆”. 台東区自転車連盟 (2009年12月17日). 2015年12月10日閲覧。
- ^ 例えば、1966年7月に日本男子自転車選手団が訪中した際に、団長を務めている 日中文化交流協会のあゆみ 1966年
出典
編集- 『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年
外部リンク
編集- 尊敬する人物の足跡 - 月岡朝太郎についてまとまった記述がある個人ブログ