叔父の薊恭公曹彬の爵位を継ぎ、薊公となった。
建安22年(217年)、樊侯に封じられた。ちなみに同年、子の曹敏も臨晋侯に封じられている。建安24年(219年)に死去。爵位は子の曹抗が継いだ。
黄初2年(221年)、曹均の爵位が公に昇進され、樊安公の諡号が追贈された。
- 曹抗
- 黄初3年(222年)、薊公に封じられた。翌黄初4年(223年)、屯留公に転封となった。景初元年(237年)に死去。諡は定公。その子の曹諶が跡を継いだ。景初・正元・景元の各年間に1900戸まで加増された。
- 曹敏
- 曹均の異母兄弟である曹矩の跡を継いだ。琅邪王。
- 曹琬
- 曹均の異母兄である曹昂の跡を継いだ。豊王。上記の通り曹均の妻の父は張繡であり、張繡が殺した相手に養子を送る行為を、『三国志集解』で盧弼は「顛倒錯乱、匪夷所思」と批難している。