智通
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
経歴
編集『日本書紀』巻第二十六によると、658年(斉明天皇4年)智達とともに新羅の船で唐に渡り、玄奘からインドの学僧である無性の衆生の義(ことわり)を受けた[1]。同じ記述が『三国仏法伝通縁起』・『仏祖統記』・『宋史』日本伝にもあり、後者には、
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめてんわう=斉明天皇)、僧智通等をして唐に入り、大乗法相宗を求めしむ
と記されている[2]。 同じ事項が『三国仏法伝通縁起』には、
智通・智達両般法師乗二新羅船一往二大唐国、二遇二玄奘三蔵一学二法相宗一
と記されており、同様の記述が『仏祖統記』にも見える。
彼らは、日本に帰国して法相宗を伝え、日本における法相宗の第2伝とされている。
智達と共に、智周から法相宗を学んだ。 帰国後は『僧綱補任抄出』によると、平城京に観音寺・金剛山寺を建立し、673年(天武天皇2年)に僧正に任じられた、とある。
脚注
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 智通 - コトバンク