是枝 恭二(これえだ きょうじ、1904年10月16日 - 1934年6月10日)は、日本の戦前の政治運動家

経歴

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鹿児島県鹿児島郡谷山村(現鹿児島市)生まれ。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島県立第一鹿児島中学校から宮崎県立宮崎中学校に転校、4年修了で第七高等学校へ進学。

七高在学中の1922年村尾薩男喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝国大学文学部社会学科に進学、新人会学生連合会学生社会科学連合会の中心的指導者の一人であった[1]

1925年10月、共産主義者グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男と3人で学生運動に対するフラクションを構成した。また同じ頃、在学中であったが『無産者新聞』記者となった。1926年1月、無産政党組織準備委員会の取材に大阪へ行き、そのまま同月15日京都学連事件で逮捕され、治安維持法による最初の被告の一人となった。同年9月2日保釈、一時熊本に帰り、11月はじめ上京して『無産者新聞』記者として活動を再開した[2]。のち同紙編集長。

この頃日本共産党に入党。1927年5月、京都地裁による第1審判決で治安維持法違反により禁固1年[3]福永操[4]と結婚。

1928年三・一五事件で再度検挙、送検される[5]

水野成夫前党中央事務局長が、1929年5月獄中で転向して著した手記に賛同。以後転向と撤回をかさね、獄死した[6]

脚注

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  1. ^ この頃『学連会報』1924年5月23日号に論文「形式論理と弁証法」を秋山次郎名で執筆。--菊川忠雄『学生社会運動史』中央公論社、1931年
  2. ^ 二村一夫『無産者新聞』小史(中)
  3. ^ この頃雑誌『マルクス主義』に論文「 公式社会主義者の哲学(一)・(二)」、「観念論と唯物論 その機械的反撥としての河上博士の最近の労作」を秋山次郎名で執筆--翻刻『日本マルクス主義文献』Web版
  4. ^ 当時、波多野操
  5. ^ 徳田球一ら共産党幹部三十五人有罪に『東京日日新聞』昭和5年4月29日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p158 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ デジタル版 日本人名大辞典