是枝恭二
経歴
編集鹿児島県鹿児島郡谷山村(現鹿児島市)生まれ。父は鉄道管理局建設事務所に勤める官吏であった。鹿児島県立第一鹿児島中学校から宮崎県立宮崎中学校に転校、4年修了で第七高等学校へ進学。
七高在学中の1922年に村尾薩男、喜入虎太郎らと社会科学研究会を創設し、また学生や鹿児島県下の青年に対する啓蒙活動を行なった。1923年東京帝国大学文学部社会学科に進学、新人会、学生連合会、学生社会科学連合会の中心的指導者の一人であった[1]。
1925年10月、共産主義者グループに参加し、志賀義雄、村尾薩男と3人で学生運動に対するフラクションを構成した。また同じ頃、在学中であったが『無産者新聞』記者となった。1926年1月、無産政党組織準備委員会の取材に大阪へ行き、そのまま同月15日京都学連事件で逮捕され、治安維持法による最初の被告の一人となった。同年9月2日保釈、一時熊本に帰り、11月はじめ上京して『無産者新聞』記者として活動を再開した[2]。のち同紙編集長。
この頃日本共産党に入党。1927年5月、京都地裁による第1審判決で治安維持法違反により禁固1年[3]。福永操[4]と結婚。
脚注
編集- ^ この頃『学連会報』1924年5月23日号に論文「形式論理と弁証法」を秋山次郎名で執筆。--菊川忠雄『学生社会運動史』中央公論社、1931年
- ^ 二村一夫『無産者新聞』小史(中)
- ^ この頃雑誌『マルクス主義』に論文「 公式社会主義者の哲学(一)・(二)」、「観念論と唯物論 その機械的反撥としての河上博士の最近の労作」を秋山次郎名で執筆--翻刻『日本マルクス主義文献』Web版
- ^ 当時、波多野操
- ^ 徳田球一ら共産党幹部三十五人有罪に『東京日日新聞』昭和5年4月29日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p158 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ デジタル版 日本人名大辞典