春枝王
春枝王(はるえおう、延暦17年(798年) - 斉衡3年9月13日(856年10月15日))は、平安時代前期の皇族。太政大臣・高市皇子の玄孫[1]。従五位下・仲嗣王の八男。官位は従五位上・下総守。
経歴
編集天長年間に嵯峨上皇に仕える。承和年間初頭に越後介に任ぜられるが、非常に治国の功績があり、承和10年(843年)ちょうど諒闇(嵯峨上皇崩御に伴う服喪期間)であったが、治国の功労により特別の叙位を受け従五位下に叙爵され、能登守に任ぜられる[2]。当時能登国は長年に亘って荒廃しており、煩わしいほど乱れていたが、春枝が赴任して3年ほどで復興して世が静まり、民衆は安心を得ることができたという[2]。また、朝廷へ申請して同国の定額寺であった大興寺を能登国分寺とした。同寺での安居の講の際には春枝王自らが参加し、梵唄の声が昼夜休むことなく続いたという[2]。この間の承和10年(843年)6月に天武天皇後裔の六世王に対して臣籍降下が行われた際、春枝王の子女3名に対しては高階真人の氏姓が与えられている。
文徳朝では、中務少輔・正親正を歴任し、仁寿4年(854年)には従五位上に叙せられた。斉衡2年(855年)下総守に任ぜられるも、病と称して赴任せずに隠居して療養したが、これまでの功労により、諸節禄や位禄などについて、官職に就いているのに準じて与えられたという[2]。
人物
編集官歴
編集『六国史』による。