星野 敏雄(ほしの としお、1899年12月10日[1] - 1979年2月11日)は、日本化学者ビタミンB1B2合成など、工業化学の分野で大きな功績を残す。理学博士[1]位階従三位紫綬褒章勲二等旭日重光章受章。東京工業大学東京大学教授など500人以上の門下生を輩出している。

人物

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1899年新潟県に生まれた。父は陸軍少尉歩兵)の星野辰五郎。1924年、東北帝国大学(現・東北大学理学部化学科を卒業。大学では真島利行教授の下で有機化学を学んだ。1927年ドイツミュンヘン大学ハインリッヒ・ヴィーラントの研究室に留学した。なお、星野の在独中にヴィーラントは胆汁酸の研究でノーベル化学賞を受賞している。1930年に帰国後、東京工業大学助教授に就任。ここではエゼリンアブリンや、ガマガエルの毒となるブフォテニンの合成を行ない、これらの業績によって1936年に帝国学士院賞(現・日本学士院賞)を受賞している。

1936年、幻覚物質5-MeO-DMTの合成に成功し、「日本化学会欧文誌」にShimodairaと共に論文を発表している[2]。ただし、同論文では医学的応用には言及していない。

さらに佐藤徹雄教授の協力を得て、ビタミンB1, B2の合成に成功、1938年ナイロンが発明されるとこれを受けてポリウレタンの合成を行なうなど精力的な活動を行なった。1939年に東京工業大学教授に昇任し、1953年日本化学会副会長、1957年には高分子学会会長に就任している。1960年に定年退官し、翌年から東レの基礎研究所所長を務めた。1970年には理化学研究所理事長に就き、5年間務めた。1979年2月11日に亡くなり、従三位を追贈されている。墓所は多磨霊園

発明などの功績から1957年に大河内発明賞を受賞し、1962年には紫綬褒章、1970年に勲二等旭日重光章を受けている。

脚注

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  1. ^ a b 星野敏雄』 - コトバンク
  2. ^ Bulletin of Chemical Society of Japan, 11(3), 221-224

参考文献

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  • 辻二郎『星野敏雄先生を偲んで』 化学の領域、Vol.33 (4), P.316 - 317, 1979年
先代
厚木勝基
高分子学会会長
1957年 - 1961年
次代
桜田一郎