星吉
星吉(せいきつ、1296年 - 1352年)は、大元ウルスに仕えたタングート人。字は吉甫。『大明一統志』など後世の編纂物では桑節とも表記される[1]。
概要
編集星吉の曽祖父は朶吉、祖父は搠思吉朶而只、父は搠思吉という名で、この家系はチンギス・カン、モンケ・カアン、クビライ・カアンといった代々のモンゴル皇帝に仕えてケレメチ(通訳)を務めていた[2]。
星吉は幼いころよりアユルバルワダ(後の仁宗ブヤント・カアン)に仕え、至治年間 (1320年代初め)に中尚監、ついで右侍儀・兼修起居注とされた。その後、監察御史、宣政院使、江南行御史台御史大夫を歴任している[3]。
湖広地方に赴任したころ、威順王コンチェク・ブカが猟に出ることで民の負担になることが問題となっていた。これを改めるべく星吉は王に謁見しようとしたが、王は中門(正門)を閉ざして西側から入れさせようとした。そこで星吉は「我は天子の命を受けて来たものであって、王の私臣ではない。どうして正門から入ることができないのか」と述べ、これを聞いた王は星吉を正門より招き入れ、星吉の諫言を聞いて振る舞いを改めたとの逸話が伝えられている[4]。
1351年(至正11年)、汝州・潁州において紅巾の乱が勃発した。これを受けて朝廷では鄭万戸が起用され、星吉はその下で徴兵・城壁の修繕・警邏などを行った。ある時、賊が2千名の配下を率いて投降を申し出てきたが、星吉は偽りの投降であると見抜き、10名を捕らえて命令を待った。しかし、この時星吉は大司農に任命されることになって召喚されてしまい、かねてから星吉に嫉妬していた同僚が無実の罪で鄭万戸を訴え、賊を釈放してしまった。このために賊の攻撃を受けて武昌城は陥落してしまい、武昌の住民は「大夫(星吉)がこの地を去らなければ、このように俘囚となることはなかったのに」と泣きながらに語ったという[5]。
その後、江西行省平章政事に任命されて江東に向かい、江州を守ることになったが、青陽を拠点とする賊によって江州は既に陥落してしまっていた。この方面の官軍は300名ほどなのに対し、賊は100万と喧伝していたため、官軍はみな逃れ去ろうとしていた。しかし星吉は「賊を畏れて逃れるは、勇あらざるなり。座して攻められるを待つは、智あらざるなり」と語り、富豪から銭を借り兵を募ろうとした。星吉は3千名を募ることに成功し、白馬湾で賊軍を破った。一連の戦闘で星吉は賊軍の首魁の周驢を捕らえ、船6艘を奪取し、池州を奪還する功績をあげた[6]。
賊が再び攻めてくると配下の王惟恭に当たらせ、自らは小舟を用いて敵軍の腹背を付き再び勝利を収めた。しかし、直後に川の上流で数十倍の敵艦隊が健在であるとの報告があり、諸将は顔色を失ったが、星吉は「この強風では船はすぐに泊まれない」と述べ、伏兵を置いて敵艦隊の到着を待った。はたして予想通り強風を受けて小回りの利かない敵艦隊を星吉は急襲し、激戦の末にこれを破ることに成功した。また、これと並行して安慶路も包囲を受けていたが、星吉の大勝利を聞いて撤退し、勝勢に乗じて湖口などが奪還された。さらに、王惟恭に命じて小孤山に柵を築いて守らせ、自らは鄱陽口を拠点として江州湖口一帯の回復を図った[7]。
このころ、湖広地方は既に反乱軍に占拠され、江西も攻撃を受け、淮浙地方は旧来のままであるが援助がなく、日に日に糧食が減り追い詰められた状況にあった。ある者が東南方面は食料が充実しているため、一度江西を離れて再起を図ってはどうかと勧めたが、星吉は「我は江西を守るよう命を受けているのであって、必ずこの地と生死を共にする」と述べて拒絶したという。その後、賊が大船4艘とともに攻めよせ、激戦が繰り広げられて星吉の従子の伯不華らも含む多くの者が戦死した。乱戦のさなか、星吉は敵の放った矢に当たったことで捕らえられた。星吉の名声を知っていた反乱軍は治療をほどこし助けようとしたが、星吉は食事を七日間拒んだ末に、北面に礼拝し絶命したという[8]。
星吉は軍中にあって将士と苦楽を共にし、星吉の忠義に感銘を受け慕う者が多かったために、しばしば少数で以て大軍を破ることができたのだと評されている[9]。
脚注
編集- ^ 張2019,136-143
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「星吉字吉甫、河西人。曽祖朶吉、祖搠思吉朶而只、父搠思吉、世事太祖・憲宗・世祖為怯里馬赤」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「星吉少給事仁宗潜邸、以精敏称。至治初、授中尚監、改右侍儀、兼修起居注。拝監察御史、有直声。自是十五遷為宣政院使、出為江南行御史台御史大夫。時承平日久、内外方以観望為政、星吉独持風裁、御史行部、必勅厲而遣之。湖東僉事三宝住、儒者也、性廉介、所至搏貪猾無所貸。御史有以自私請者、拒不納、則誣以事劾之。章至、星吉怒曰『若人之廉、孰不知之、乃敢為是言耶』。即奏杖御史而白其誣。執政者悪之、移湖広行省平章政事」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「湖広地連江北、威順王歳嘗出猟、民病之。又起広楽園、多萃名倡巨賈以網大利、有司莫敢忤。星吉至、謁王、王闔中門、啓左扉、召以入。星吉引縄牀坐王中門西、言曰『吾受天子命来作牧、非王私臣也、焉得由不正之道入乎!』閽者懼、入告王、王命啓中門。星吉入、責王曰『王、帝室之懿、古之所謂伯父叔父者也。今徳音不聞、而騁猟宣淫、賈怨于下、恐非所以自貽多福也』。王急握星吉手謝之、為悉罷其所為。有胡僧曰小住持者、服三品命、恃寵横甚、数以事凌轢官府。星吉命掩捕之、得妻妾女楽婦女十有八人、獄具、罪而籍之、由是豪強斂手、貧弱称快」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「至正十一年、汝・潁妖賊起、会僚属議之、或曰『有鄭万戸、老将也、宜起而用之』。星吉乃命募土兵、完城池、修器械、厳巡警、悉以其事属鄭。賊聞之、遣其党二千来約降。星吉与鄭謀曰『此詐也、然降而却之、於是為不宜、宜受而審之可也』。果得其情、乃殲之、械其渠魁数十人以俟命。適有旨召為大司農。同僚受賊賂、且嫉其功、乃誣鄭罪、釈其所械者。明日、賊大至、内外響応、城遂陥。武昌之人駢首夜泣曰『大夫不去、吾豈為俘囚乎』。星吉既入見、具陳賊本末。帝大喜、命賜食」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「時宰不悦、奏為江西行省平章政事、員外置。星吉至江東、詔令守江州。時江州已陥、賊拠青陽。太平官軍止有三百人、賊号百万、衆皆欲走。星吉曰『畏賊而逃、非勇也。坐而待攻、非智也。汝等皆有妻子財物、縦逃其可免乎』。乃貸富人銭、募人為兵。先是、行台募兵、人給百五十千、無応者。至是、星吉募兵、人五十千、衆争赴之、一日得三千人。乃具舟楫直趨銅陵、克之。又破賊白馬湾。賊敗走、分兵躡之、抵白湄、賊窮急回拒官軍、官軍乗勝奮撃、賊尽殪、擒其渠魁周驢、奪船六百艘、軍声大振、遂復池州。乃命諸将分道討賊、復石埭諸県」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「賊復来攻、命王惟恭列陣当之、鋒始交、出小艦従旁横撃、大破走之、進拠清水湾。伺者告賊艦至自上流、順風挙帆、衆且数十倍、諸将失色。星吉曰『無傷也、風勢盛、彼倉卒必不得泊、但伏横港中偃旗以待、俟過而撃之、無不勝矣』。風怒水駛、賊奄忽而過、乃命挙旗張帆鼓譟而薄之、官軍殊死戦、風反為我用、又大破之。時賊久囲安慶、捷聞、遽燒営走。進復湖口県、克江州、留兵守之。命王惟恭柵小孤山、而星吉自拠鄱陽口、綴江湖要衝以図恢復」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「時湖広已陥、江西被囲、淮浙亦多故、卒無継援之者、日久糧益乏、士卒咸困。或曰『東南完実、盍因糧以図再挙乎』。星吉曰『吾受命守江西、必死于此』。衆莫敢復言。有頃、賊乗大船四集、来攻我軍、取蒹葦編為大筏、塞上下流火之。我軍力戦、衆死且尽。星吉之従子伯不華与親兵数十人死之。星吉猶堅坐不動。賊発矢射星吉、乃昏仆。賊素聞星吉名、不忍害、舁置密室中、至旦乃蘇。賊羅拝、争饋以食、星吉斥之、遂不復食、凡七日、乃自力而起、北面再拝曰『臣力竭矣』。遂絶、年五十七」
- ^ 『元史』巻144列伝31星吉伝,「星吉為人公廉明決、及在軍中、能与将士同甘苦、以忠義感激人心、故能以少撃衆・得人死力云」