昌慶丸(しょうけいまる Shokei maru)は鉄道省関釜航路青函航路鉄道連絡船。景福丸型の第3船である。姉妹船には景福丸徳寿丸がある。

昌慶丸
基本情報
船種 客船
クラス 景福丸型客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
日本
所有者 鉄道省
運輸通信省
運輸省鉄道総局
日本国有鉄道
運用者 鉄道省
運輸通信省
運輸省鉄道総局
日本国有鉄道
建造所 三菱重工業神戸造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 景福丸
徳寿丸
信号符字 SLQK→JKJA
IMO番号 29053(※船舶番号)
建造期間 399日
経歴
起工 1922年1月25日
進水 1922年9月9日
竣工 1923年2月28日
就航 1923年
最後 1961年解体
要目
総トン数 3,619トン
載貨重量 657トン
全長 114.3m
垂線間長 109.73m
14.2m
深さ 8.53m
高さ 26.2m(水面からマスト最上端まで)
14.6m(水面から煙突最上端まで)
主機関 三菱パーソンズタービン 2基
推進器 2軸
出力 9,163SHP
速力 20.5ノット
旅客定員 一等:45名
二等:204名
三等:629名
計:878名
出典は『なつかしい日本の汽船』[1]
高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)
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下関鉄道桟橋の昌慶丸

命名の由来

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旧朝鮮時代の王宮昌慶宮の名をとり命名される。

航跡

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就航

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関釜連絡船、朝鮮鉄道南満洲鉄道経由の日中連絡運輸開始による旅客増に対応するため、1920年に新造が計画された景福丸型旅客船3隻の第3船である。1923年三菱重工業神戸造船所で建造され、同年就航した。速力は20ノット以上であり、景福丸型では最も性能が良かった。 景福丸型が3隻就航したことにより、下関釜山間は昼8時間、夜9時間に短縮された。

関釜航路

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関釜航路に就航後、1942年釜山港で座礁し、約1ヶ月離脱する。1943年からは博釜航路で運用されていたが、博多湾機雷封鎖で使用できなくなってしまった。博多湾から無事脱出後の1945年6月からは須佐湾山口県)を基点として中国大陸との航路で活躍する。

1945年7月30日、退避中の宮津港アメリカ軍空軍機の空襲に遭遇し、至近弾を受け浸水し擱座。そのまま放置され終戦を迎えた。終戦後、GHQ日本商船管理局en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-S117の管理番号を与えられた。

青函航路

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終戦後もしばらく放置されていたが、青函連絡船の不足を補うため1946年に引き揚げられ、1947年8月に修理が完了。同年9月23日より青函航路に就航する。1947年より洞爺丸型が順次就航すると、1948年10月10日に終航する。

1952年1月から4月まではアメリカ軍に徴用され、朝鮮戦争の人員・物資の運搬に従事する。

1954年9月26日、洞爺丸台風により洞爺丸などが沈没(洞爺丸事故)すると、船員の訓練の必要があがり、昌慶丸は1955年12月18日に訓練船となり、函館港有川岸壁に繋留される。1957年10月まで訓練船として使われ、1961年に売却、解体された。

脚注

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  1. ^ なつかしい日本の汽船 昌慶丸”. 長澤文雄. 2022年11月21日閲覧。
  2. ^ Keihuku_Maru_class