日野晴資

戦国時代の公家

日野 晴資(ひの はるすけ、天文5年(1536年) - 天文20年(1551年))は、戦国時代公家。初名は資条権大納言日野晴光の長男。官位正五位上右中弁

生涯

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天文11年(1542年)、従五位下叙爵した。

天文13年(1544年)、征夷大将軍足利義晴加冠によって元服し、その偏諱を受けて、資条から晴資に改名する。また、従五位上・侍従に叙任された。

天文15年(1546年)、弱冠11歳にして弁官(権左少弁)に任ぜられると、天文16年(1547年正五位下・左少弁、天文17年(1548年)正五位上と昇進する。

天文19年(1550年)に五位蔵人を兼ね、12月には右中弁に昇任された。この年の5月に烏帽子親であった足利義晴が病死すると、夏頃から晴資は狂気のために駿河国へ下向する。

天文20年(1551年)、富士川を渡っていた際に水中で没した。自害させられたとの噂があったという[1]

官歴

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『弁官補任』による。

脚注

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  1. ^ 『弁官補任』

参考文献

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