日立市立大雄院小学校
日立市立大雄院小学校(ひたちしりつ だいおういんしょうがっこう)は、茨城県日立市の日立鉱山地区にあった小学校。1909年(明治42年)創立、1979年(昭和54年)廃校。
日立市立大雄院小学校 | |
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北緯36度36分56秒 東経140度38分24秒 / 北緯36.61556度 東経140.64000度座標: 北緯36度36分56秒 東経140度38分24秒 / 北緯36.61556度 東経140.64000度 | |
過去の名称 |
第二日立鉱山尋常小学校 日立鉱山第二尋常高等小学校 日立鉱山第二尋常小学校 日立第三尋常小学校 日立第三尋常高等小学校 日立市大雄院尋常高等小学校 日立市大雄院国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 日立市 |
設立年月日 | 1909年 |
閉校年月日 | 1979年 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒317-0056 |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
概要
編集日立市杉本町1丁目1番地(現在は日立市白銀町)にあった。日立有料道路の一般道出口から西、JX金属へ向かう道沿いにあたる。
大雄院小学校は広大な敷地を抱えたマンモス小学校で、日立市立本山小学校と共に、日立鉱山関係者子弟の教育にあたった。最高児童数は1926年(大正15年)の1246人。師範学校の最優秀卒業生を教師として迎え、大正時代のうちにサッカーやラグビーを体操の授業に取り入れるなど、西洋的な教育も充実していた。また共楽館(現在は日立武道館)を最大に利用した視聴覚教育など、国内でも先進的な教育が行なわれていた。
大東亜戦争により軍需産業が盛んだった1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)にかけ、大雄院小学校の児童数は1000人台から1200人台であった。1946年(昭和21年)から1956年(昭和31年)までは600人台から900人台に減少したが、戦後復興により日立鉱山の従業員数が増加、1957年(昭和33年)と翌年には1000人台に戻った。しかし翌1959年(昭和35年)以降は徐々に児童数が減り、1977年(昭和53年)には児童数53名となっていた。
沿革
編集- 1909年(明治42年)2月1日 - 第二日立鉱山尋常小学校創立。
- 1910年(明治43年)4月1日 - 日立鉱山第二尋常高等小学校と改称。
- 1916年(大正5年)4月1日 - 日立鉱山第二尋常小学校と改称。
- 1918年(大正7年)4月1日 - 日立第三尋常小学校と改称。
- 1923年(大正12年)5月4日 - 日立第三尋常高等小学校と改称。
- 1940年(昭和15年)3月 - 日立市大雄院尋常高等小学校と改称。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により日立市大雄院国民学校と改称。
- 1947年(昭和22年)5月 - 学制改革により日立市立大雄院小学校と改称、日立市立大雄院中学校併設。
- 1953年(昭和28年)4月1日 - 大雄院幼稚園併設。
- 1967年(昭和42年)4月1日 - 大雄院ことばの教室併設。
- 1970年(昭和45年)4月1日 - 日立教育研究所併設。
- 1979年(昭和54年)3月31日 - 日立市立大雄院小学校閉校。
校章
編集校歌
編集(高野辰之 作詩)
(信時潔 作曲)
知識の光のかがよう日立
道の定めの正しき日立
栄ゆく日立のここ杉本に
我等は生い立ち我等は学ぶ
神峰の山を背に負う我等
太平洋を見渡す我等
我等は自然の教えに励む
動かぬ心とはるけき姿
抱く望みの高かるべきは
進む動きにみだれぬ様は
かの煙突と車を範に
手を取りかわして睦むは我等
脚注
編集昭和54年2月、大雄院小学校創立70周年記念実行委員会が結成され、2月13日に記念誌委員会が発足し、本山小学校の「かみね」を参考にして「七十年のあゆみ」の編集がされた。「七十年のあゆみ」は大雄院小学校の唯一の記録集である。
「七十年のあゆみ」
印刷日 昭和54年4月20日
発効日 昭和54年5月5日
改訂 昭和54年6月20日
発行者 西村春男
印刷 墨仙堂
関連項目
編集外部リンク
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