日根野高吉
戦国時代の武将。信濃諏訪藩(高島藩)初代藩主。従五位下、織部正。子に日根野高当(高富)=吉重-高英-高重=則最=高豊-高勝
日根野 高吉(ひねの たかよし)は、戦国時代の武将。美濃国出身[1][2]。織田信長、豊臣秀吉に仕えた[3]。信濃国諏訪藩(高島藩)の初代藩主。官位は従五位下織部正[3]。正室は、戸田忠成の娘[3]。
生誕 | 天文8年(1539年) |
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死没 | 慶長5年6月26日(1600年8月5日) |
別名 | 半左衛門、高弘、吉就 |
戒名 | 鑑照院殿鉄叟玄心大居士 |
墓所 | 慈雲寺(現・長野県諏訪郡下諏訪町東町中) |
官位 | 従五位下、織部正 |
主君 | 斎藤義龍→龍興→織田信長→信孝→豊臣秀吉→秀頼 |
藩 | 信濃国諏訪藩藩主 |
氏族 | 日根野氏 |
父母 | 父:日根野弘就、母:某氏 |
兄弟 | 高吉、吉時、弘正、弘勝、女子(浅野氏次妻) |
妻 | 正室:戸田忠成の娘 |
子 | 吉明、高継、高当、女子(柴田勝政妻) |
生涯
編集日根野弘就の長男として生まれる[3]。母は某氏[3]。弟に、吉時、日根弘正、弘勝がいる[3]。妹は浅野氏次の妻となった[3]。はじめ父に従い信長に仕え、秀吉に仕える。
小田原征伐において山中城を攻略した戦功により、天正18年(1590年)7月13日、近江国愛知郡平松城から信濃国諏訪郡2万7000石に移封となった[1][4][2]。
日根野氏により、後述する高島城築城の他、城下町の上諏訪形成、石高制による検地の実施、逃散農民の呼び戻しなど、中央の豊臣政権の方針が反映されることになり、近世における高島藩政の基礎が整えられた[1]。
天正20年(1592年)1月、朝鮮出兵(壬辰倭乱)では、300人を率いて肥前国名護屋に駐屯した[5][4][注 1]。
同年、高島城の築城に着手し、慶長3年(1598年)、完成した[6][7]。伏見城の築城でも功を挙げている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては東軍に与していたが、本戦直前の6月26日、高島で病死した[5][3]。慈雲寺に葬られた[3][5][8][注 2]。享年62[2]。法名は、鑑照院殿鉄叟玄心大居士[5]。
死後
編集慶安2年(1649年)、高吉の五十回忌に際し、吉明は封地の豊後国府内から慈雲寺を訪れ、同寺の墓地に供養の五輪塔を建てた[10][11]。塔には「
この供養塔は、1970年11月17日、「日根野織部正高吉供養塔」として下諏訪町の文化財(彫刻)として指定された[12][11]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c 諏訪市史編纂委員会 1995, p. 1098.
- ^ a b c 「日根野高吉」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2023年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 榮進舍出版部 1917, p. 131.
- ^ a b 諏訪市史編纂委員会 1995, p. 1194.
- ^ a b c d e f 諏訪市史編纂委員会 1995, p. 1105.
- ^ 諏訪市史編纂委員会 1995, pp. 1099–1100.
- ^ “諏訪高島城”. シゼンとヒトがつながる 諏訪市魅力発信サイト. 諏訪市 (2023年5月8日). 2023年8月8日閲覧。
- ^ “慈雲寺(じうんじ)”. 諏訪観光連盟. 2023年8月8日閲覧。
- ^ a b 諏訪市史編纂委員会 1995, p. 1106.
- ^ 諏訪市史編纂委員会 1995, pp. 1105–1106.
- ^ a b “日根野織部正高吉供養塔”. 公益財団法人八十二文化財団. 2023年8月8日閲覧。
- ^ “下諏訪町の文化財一覧”. 下諏訪町 (2019年9月19日). 2023年8月9日閲覧。
参考文献
編集外部リンク
編集- 『日根野高吉』 - コトバンク
- 日根野織部正高吉供養塔 - 公益財団法人八十二文化財団