日本の悲劇 (1946年の映画)
『自由の声 日本の悲劇』(じゆうのこえ にっぽんのひげき)[1]は、日本映画社が1946年に製作したドキュメンタリー映画である。
自由の声 日本の悲劇 | |
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監督 | 亀井文夫 |
製作 | 岩崎昶 |
ナレーター | 丸山章治 |
出演者 |
昭和天皇 東条英機 |
編集 |
亀井文夫 吉見泰 録音:東亜発声 |
配給 | 日本映画社 |
公開 | 1946年 |
上映時間 | 39分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
概要
編集サブタイトルに「日本映画社・映画時評」とあり、また通し番号として「No.230」[1]とあった。
モンタージュ理論の本場のソ連のレニングラード映画技術専門学校で学んだ亀井文夫らしく、戦争遂行の目的で製作された既存のニュースフィルムをモンタージュ(再編集)して、帝国日本の過去の侵略的な歴史を批判的に叙述した。ラストに軍服姿の昭和天皇が背広姿へとフェードして変わっていくシーンを挿入した。解説を丸山章治が担当した。
GHQの検閲を一旦通過して公開された後、吉田茂首相の圧力により、再検閲の結果、公開後1週間で[2] フィルムは没収、上映禁止となる[3][4]。他方、首相官邸で行われた試写会の後に怒ったのは短気の吉田より、むしろ参謀第2部(G2)部長のチャールズ・ウィロビーであったとも伝えられている[5]。
現在ではDVD化されている。当時のニュース・短編専門館の支配人だった人物によれば、民間情報教育局(CIE)と民間検閲支隊(CCD)の「派閥抗争」があったとされる[6]。
平野共余子『天皇と接吻』(草思社 1998年)には、亀井文夫ら当時の関係者へのインタビューなども含めて『日本の悲劇』上映禁止の経過が詳述されている。坂手洋二は平野の著書をもとに戯曲『天皇と接吻』を創作し、『日本の悲劇』上映禁止経過を劇化した。坂手は自己の劇団燐光群で自らの演出により『天皇と接吻』を1999年11月〜12月上演した。この舞台は好評で、坂手は2000年度読売演劇大賞・最優秀演出家賞を受賞した。坂手の戯曲は、カモミール社から2001年公刊された。平野共余子は同書に解説を寄稿している。
出典
編集- ^ a b 戦記映画14 日本の悲劇 <自由の声> 昭和21年1946年 作品 42分
- ^ NHKアーカイブス保存番組「ETV特集 日本の悲劇〜昭和21年・没収された記録映画〜」放送日1994年4月27日
- ^ 亀井文夫 略歴 日本ドキュメントフィルム
- ^ 作家の宮本百合子は、『思想と科学』(臨時増刊号1949年1月)掲載の「今日の日本の文化問題」で、本作について「これは一つの新しい方法で戦争中のニュース映画をモンタージュしたものであった」と評価し、「興業者たちはそのフィルムを買うことを拒絶した」「こういう拒絶を可能にさせる一つの圧力があった」と書いている。
- ^ 占領下の言論弾圧 1969.
- ^ ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から 吉原順平 III 占領下の民主化と短編映像——文化映画から新しい教育映画へ(承前)2 戦後短編映画業界の形成——経験者たちと新しいプレーヤーの出会い 「『日本の悲劇』の上映禁止と没収」
参考文献
編集- 平野共余子『天皇と接吻』(草思社、1998年)
- 松浦総三「チャンバラ追放と日本映画の朝」『占領下の言論弾圧』現代ジャーナリズム出版会、1969年、157 - 173頁。NDLJP:11932602/82。
関連項目
編集- 日本の悲劇 (1953年の映画)
- 日本の悲劇 (2012年の映画)
- デヴィッド・コンデ - 民間情報教育局映画演劇課長として本作を企画。上映禁止後に更迭
- セオドア・コーエン - コンデと共に本作のGHQ側の企画者