日光円蔵(にっこうのえんぞう、享和元年(1801年) - 天保13年(1842年)[1])は、江戸時代後期の博徒。
元は下野国板橋宿の晃圓という名の僧であった[1]が、のち上野国の博徒・国定忠治の子分となり、日光円蔵と称する。「その性機敏にして頓才に秀れ[1]」ていたため、忠治の軍師・参謀と言われる存在となる。
天保13年、捕縛される[1]。その後、刑死[2]とも牢死[1]したともいわれる。享年42[1]。