施 履本(し りほん、中国語: 施履本; 拼音: Shī Lǚbĕn; ウェード式: Shih Lǚ-pen)は、中華民国満州国の外交官・政治家。別号は長卿

施履本
今村俊三ほか『満洲国人傑紹介号』(1936年)
プロフィール
出生: 1885年1月26日
光緒10年12月11日)[1]
死去: 1938年康徳5年)1月17日
満州国
出身地: 清の旗 湖北省荊州府江陵県
職業: 外交官・政治家
各種表記
繁体字 施履本
簡体字 施履本
拼音 Shī Lǚbĕn
ラテン字 Shih Lǚ-pen
和名表記: し りほん
発音転記: シー リューベン
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事績

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『大満洲国要人画報』(1934年)

日本に留学して中央大学法律科を卒業[2]。清朝では外務部主事、宗室覚羅八旗高等学堂教授などを務めた[3]

1919年民国8年)7月27日、施履本は山東省特派交渉員となり、1923年(民国12年)2月15日まで務めた[4]。同年8月18日、施は駐日公使代理に任命され[5]、翌月には関東大震災の慰問のため急遽来日している[6]1929年(民国18年)、国民政府外交部駐ハルビン(哈爾浜)特派員吉林弁事処長に任命された[2]

1932年大同元年)3月に満洲国が建国されると、施履本は駐ハルビン吉林交渉署署長に任命された。同年6月に交渉署が北満特派員弁事処に改組されると、北満特派員に改められて留任した[2][7]1935年康徳2年)5月23日、ハルビン特別市長を兼任する[2][8][9]。北満特派員としては対ソ交渉における現場担当者となり、ソ連側の不法越境問題などに対処した。1937年(康徳4年)6月に発生した乾岔子島事件においても、ソ連在ハルビン領事代理に抗議を申し入れている[10]

1937年(康徳4年)7月1日、ハルビン特別市が濱江省の省轄市に改められ、また、同省省長の閻伝紱吉林省長に移ったため、施履本が後任の省長となった[11][12]。翌1938年(康徳5年)1月17日、心臓性喘息のため死去[13][14]。享年54(満52歳)。

  1. ^ 本記事は『大満洲帝国名鑑』「吉林省」、5頁に従う。なお「施履本氏逝去」『読売新聞』1938年1月19日第二夕刊、1面は「享年五十六」としており、これに従うならば1883年生まれとなる。尾崎監修(1940)、18頁も「1883年生」としている。一方、「施履本氏」『東京朝日新聞』1938年1月19日夕刊、1面は「享年六十」としており、これに従うならば1879年生まれとなる。
  2. ^ a b c d 尾崎監修(1940)、18頁。
  3. ^ 『大満洲帝国名鑑』(1934)、「吉林省」5頁
  4. ^ 劉ほか主編(1995)、224-226頁。
  5. ^ 「駐日代理公使 施履本氏に決定」『東京朝日新聞』1923年8月20日夕刊、1面。
  6. ^ 『時事年鑑 大正十三年版』時事通信社、40頁。
  7. ^ 「駐ハ吉林交渉署を廃す 北満特派員弁事処を建設」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)6月3日。
  8. ^ 「満州国の人事異動」『東京朝日新聞』昭和10年(1935年)5月25日
  9. ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、46頁。
  10. ^ 「乾岔子(カンチヤヅ)占據のソ聯軍に断乎撤退を要求す 却つて艦隊集結の不法続行!」『読売新聞』1937年6月29日朝刊、1面。
  11. ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、70頁。
  12. ^ 「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、2面。
  13. ^ 「施履本氏逝去」『読売新聞』1938年1月19日第二夕刊、1面。
  14. ^ 「施履本氏」『東京朝日新聞』1938年1月19日夕刊、1面。

参考文献

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  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第十二巻』創元社、1940年。 
  • 満洲国史編纂委員会編『満洲国年表 本編』満蒙同胞援護会、1956年。 
   満州国
先代
呂栄寰
ハルビン特別市長
1935年5月 - 1937年6月
次代
(省轄市に移行)
先代
閻伝紱
浜江省長
1937年7月 - 1938年1月
次代
韋煥章