斯那奴阿比多(しなののあひた、生没年不詳[1])は、百済使者[1]欽明天皇十一年に日本の使者として百済に遣わされているため、日本人とみられる[1]。したがって、日本人であるが、百済王権に仕えた倭系百済官僚になる。阿比多とも[1]

斯那奴阿比多
各種表記
漢字 斯那奴阿比多
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: しなののあひた
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概要

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日本書紀』によると、継体天皇十年(516年)百済使者・斯那奴阿比多、百済の将軍灼莫古高句麗の使者・安定がともに来日し、日本との修好につとめたという[1]

金鉉球李在碩は、阿比多以外にも斯那奴氏(科野氏)の百済官僚が多くみられること、『日本書紀』継体紀十年秋九月戊寅条「百済遣灼莫古将軍・日本斯那奴阿比多,副高麗使安定等,来朝結好」とあるように斯那奴阿比多は百済の使臣であり、百済の使臣である限り、史料に直接的に百済官僚であることを示すものがみえなくとも、百済の使臣としてふさわしい百済での地位または官職を有していたはずであり、『日本書紀』継体紀、『日本書紀』欽明紀などにみられる百済の使臣団のなかで、官人でないものは一人もいないことから、斯那奴阿比多も百済の官人(倭系百済官僚)とみるのが自然と指摘している[2]

考証

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日本書紀』百済系史料に記される斯那奴氏(科野氏)の活動は以下である。

1.
百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多,副高麗使安定等,來朝結好。 — 日本書紀、巻第十七
2.
遣使詔于百濟〈百濟本記云。三月十二日辛酉。日本使人阿比多率三舟來至都下。〉曰。 — 日本書紀、巻第十九
3.
在百濟日本王人方欲還之。〈百濟本記云。四月一日庚辰。日本阿比多還也。〉 — 日本書紀、巻第十九

1.では百済と継体天皇の外交において、百済使者「日本斯那奴阿比多」が現れるが、斯那奴阿比多は2.では「日本使人」、3.では「在百済日本王人」と記されており、以下『日本書紀』記事より、「王人」とは「」=ミコトモチを朝鮮半島の言葉で呼んだものであることがわかる。

遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國〈王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。〉 — 日本書紀、巻第二十

斯那奴阿比多が百済でを生していたとすれば、滞在は長期間にわたるものであり、継体天皇十年から欽明天皇十一年に至る期間滞在し続けた可能性があり、斯那奴阿比多は「王人」=ミコトモチであるが、1.では百済の立場で倭国に到来しているため、百済に派遣されたミコトモチが百済滞在中は百済王に仕え、ミコトモチが現地において大王の統制を離れていたことを意味する[3]

斯那奴阿比多の動向について、欽明天皇十一年に倭国が派遣した外交使節とみる見解があるが、そう単純ではなく、何故ならば、1.2.の間にあたる期間に斯那奴氏(科野氏)が倭系百済官僚として現れるためである[3]

百濟遣施徳馬武。施徳高分屋。施徳斯那奴次酒等。使于任那。謂日本府與任那旱岐等曰。我遣紀臣奈率彌麻沙。奈率己連。物部連奈率用歌多。朝謁天皇。彌麻沙等還自日本。 — 日本書紀、巻第十九

官位「施徳」を有する斯那奴次酒がみえるが、斯那奴氏(科野氏)は、『日本書紀』に他に現れない信濃豪族であり、ヤマト王権において活発に活動していたわけではなく、それを考慮すると斯那奴次酒は斯那奴阿比多と近い関係である可能がある[3]。すなわち、斯那奴阿比多、斯那奴次酒科野新羅の関係であるが、倭国における有力豪族とは言い難い斯那奴氏(科野氏)という共通性からすれば無関係とは考え難く、斯那奴阿比多の活動は継体天皇十年から欽明天皇十一年、斯那奴次酒の活動は欽明天皇五年から欽明天皇十五年、科野新羅の活動は欽明天皇十四年であり、斯那奴阿比多は一世代前から活動を始めていることになるため、斯那奴阿比多が、斯那奴次酒・科野新羅が兄弟の可能性がある[4]

脚注

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  1. ^ a b c d e 日本人名大辞典+Plus阿比多』 - コトバンク
  2. ^ 李在碩 (I, Jesoku)「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」『駒澤史学』第62巻、駒澤史学会、2004年3月、35頁、CRID 1050564288184403072ISSN 04506928 
  3. ^ a b c 河内春人 2017, p. 105-106.
  4. ^ 河内春人 2017, p. 111.

参考文献

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