斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日安政2年5月15日) - 1938年昭和13年)12月9日)は、日本政治家実業家衆議院議員

概要

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1855年安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる[1]。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家[1][2]で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]

1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年慶応2年)より親戚の中山家に移り[1]、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。これらの過程で西洋文化志向を強く持つようになり、2、3の英学塾を経て、慶應義塾に学んだ[1]。慶應義塾で学んだ後は郷里に戻り、政治結社「改進社」を結成した[1]1878年(明治11年)には守谷町に守谷郵便局を設置するなど、郷里の発展に寄与した[要出典]

自由民権運動の高まりと共に運動に身を投じ、1880年明治13年)2月25日には同舟社の呼びかけに応じる形で、筑波山会議に改進社の有志として参加した[1]1881年(明治14年)には北相馬郡から県会議員に立候補し、県議を4期務めた[1]1892年(明治25年)には第2回衆議院議員総選挙に出馬して当選し、計3期に渡り衆議院議員として国政に参加した[1]

政界引退後、1896年(明治29年)農工銀行の設立委員に選ばれる[1]1900年(明治33年)茨城農工銀行頭取に就任し[1]1933年(昭和8年)までの33年にわたって頭取を務めた[1]また、1924年大正13年)には、政府の1県1銀行政策による合併問題に対し、茨城県の合同促進委員として合同に関する一切の交渉を任され、1935年(昭和10年)には郷里守谷にも店舗を置く常陽銀行の基礎を築いた。[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k わがまちが生んだ偉人 齋藤斐”. 筑波銀行グループ 筑波総研株式会社. 2022年11月閲覧。
  2. ^ 『守谷町史』(守谷町)[要ページ番号]