敬哀皇后(けいあいこうごう)は、中国三国時代の人物。蜀漢の2代皇帝である劉禅の皇后。

張皇后
蜀漢の皇后
在位 建興元年 - 建興15年
223年 - 237年

別称 敬哀皇后
出生 生年不詳
死去 建興15年(237年)6月
埋葬 南陵
配偶者 劉禅
氏族 張氏
父親 張飛
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幽州涿郡の人[1]は伝わっておらず、諡号で敬哀皇后と呼ばれる。張飛の長女で、母は夏侯覇の従妹。妹は自身の死後に劉禅の皇后となる(単に張皇后と呼ばれる)。

生涯

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章武元年(221年)、劉備が蜀漢の皇帝として即位すると、皇太子劉禅の妃として宮中に入る。

建興元年(223年)、劉禅の皇帝即位に伴い、皇后に立てられる。

建興15年(237年)6月[2]に死去。南陵に葬られた。

三国志演義

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小説『三国志演義』では第85回で名前が挙がり、劉禅の即位時に初めて妻として迎えられ、そのまま皇后に立てられる。この時、年齢は17歳と設定されている。

その後、第115回では皇后が劉琰の妻を引き止めて話し込んだことに端を発し、劉琰が妻と劉禅の密通を疑う騒動も描かれる[3]

出典

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脚注

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  1. ^ 『三国志』蜀書 張飛伝記載、父の張飛の本貫
  2. ^ 『三国志』蜀書 後主伝
  3. ^ 『三国志』蜀書 劉琰伝によると、史実で劉琰の妻を引き止めたのは穆皇太后