教会堂

キリスト教の礼拝のための建築物

教会堂(きょうかいどう)は、キリスト教などの教会建築物である。単に「教会」とも言うが、「教会」と言う場合は、教会堂と、そこに関わる共通の信仰を持つ人々の総体を表す(反対に教会として使われなくなった教会堂もある。)。キリスト教の場合、日本の聖職者や信者の間では教会堂ではなく聖堂(せいどう)と呼ぶことが多い。

概要

編集

信仰の場であり、信者や聖職者が集い、長時間その内部に身を置き、信仰をはぐくむ空間であるので、建物の内部空間の設計や様式が重視されている。[注釈 1]

教派により様式が異なる。正教会、またカトリック教会聖公会の場合は、教会堂(聖堂)の内部を装飾も用いて荘厳にしていることが多く、さらにローマ帝国が395年に東西に分裂したこと東西教会の分裂の影響が教会堂の様式にも大きな影響を及ぼしており、正教会(東方教会)と西方教会(カトリック教会など)で様式が大きく異なっている。また正教会とカトリック教会や聖公会とプロテスタントの教会堂を比較した場合も大きく異なっており、正教会ならイコンが置かれ、カトリック教会や聖公会ならステンドグラス壁画を用いて視覚的に分かりやすく信仰を説いたものが多いという点では共通なのだが、それに対しプロテスタントの教会では、あくまで集会や説教のための場とした実用本位な教会が多く、装飾は控えられ比較的スッキリとした様式で、簡素な十字架くらいは設置してあることは多いが、なかには十字架も置かない場合もあるというのが特徴だと云える。

以下、特徴ある各時代の教会堂の様式を述べる。

初期キリスト教建築の教会堂

編集

古くは古代ローマの集会場であるバシリカを継承した長方形で、これをバシリカ式教会堂と呼ぶ。身廊の両側に、列柱で隔てられた側廊、正面奥に半円形平面のアプシスを持つ平面構成。屋根は木造小屋組。身廊の天井は一段高く、側壁にクリアストーリと呼ばれる高窓を持つ。後に交差廊を加え、ラテン十字形を基本とする形式をとるようになった。

一方、古代には円形・正多角形を基本とする教会堂(集中堂式教会堂)も作られ、教会堂のほか、洗礼堂墓廟としても用いられた。こちらはローマ帝国分裂後、東ローマに伝わり、ビザンティン建築の起源となったと考えられている。時代が下るにつれ、堂内に小礼拝堂などを併設するようになる。

ビザンティン建築の教会堂

編集
 
サン・ヴィターレ聖堂の内部

ビザンティン様式の聖堂(教会堂)は、ドームを中心とする垂直軸を重視した空間構成、ギリシャ十字形(集中式)の平面を取り、ドームにはモザイクキリスト像が描かれる場合が多い。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を通じ、正教会の聖堂建築様式として東ヨーロッパスラヴ文化圏に広まった。

正教会(東方教会)

編集

ウクライナ建築の教会堂

編集

ウクライナ正教会の建築物は、ビザンティン建築をベースにしている。ドーム屋根形状に複数の縦稜線エッジが入っているのが主な特徴であり、時代によって様々に異なる様式を発展させていった。

ロシア建築の教会堂

編集

ロシア建築における聖堂(教会堂)は、ビザンティン建築をベースにしつつも、ロシア独自の様式や西欧からの影響が盛り込まれ、時代によって様々に異なる様式を発展させていった。

西方教会

編集

ロマネスク建築の教会堂

編集

ロマネスク様式の教会堂は、11世紀以降に造られた。バシリカ形式の平面で、後にはヴォールト架構を導入した。ヴォールトによる側壁の面外方向への加重を、壁を分厚くすることによって受ける。地域、教派による多様性があり、様式としての統一性は薄い。

ゴシック建築の教会堂

編集

ゴシック様式の教会堂は北フランスに生まれ、12世紀後半ごろからヨーロッパ全土へ広がる。リブ・ヴォールト尖頭アーチ、飛梁(フライング・バットレス)の働きによって、ロマネスク建築の分厚い壁面とは対照的に、壁をできる限り少なくし、ステンドグラスに彩られた光あふれる空間を実現した。ゴシック建築の教会堂は、ステンドグラス・高い天井など最も教会堂らしい形をしていると言える。

ルネサンス建築の教会堂

編集

ルネサンス様式の教会堂は、15世紀にイタリアで始まる。ローマの建築様式を復興し、古典的で調和の取れた明快な様式である。  

バロック建築の教会堂

編集

バロック様式の教会堂は、ローマ、スペインなどで多く造られ、カトリックの対抗改革を背景に、動的、劇的な空間構成が取られる。

古典主義・新古典主義・歴史主義の教会堂

編集

モダニズム建築以降の教会堂

編集


ギャラリー

編集

日本の教会堂

編集
 
現存する日本の最古の教会堂である大浦天主堂(長崎市)

キリスト教伝来1549年)から徳川幕府によるキリスト教禁教までの期間、日本各地に建てられた教会堂は、この当時の建物は現存しておらず、資料や出土遺物で確認できるのみである。その時代の「教会堂」は現代イメージされる西洋建築風でなく、建物内部の床は当時の日本人にとって居心地が良いように配慮して敷きで、仏教寺院風の外観で、屋根の頂上に十字架を据え付けたようなものであった。(信者以外からは、勝手な通称で)「南蛮寺」などと呼ばれた。

本格的な西洋風教会は幕末ころから建築されるようになった。明治以降の文明開化にともない、西洋建築の技術が国内に入り、本格的な西洋風教会を造る機が熟してきた。古い時代のカトリックの教会堂は「天主(デウス)」にならい、「天主堂」とも呼ばれていた。長崎の教会群など、木造の素朴なものから、煉瓦積みのものなど、それぞれに信仰の形を映し出している。外国から来た宣教師が設計したもの、日本人が設計したものなど色々あるが、特に戦国期からのキリシタン伝統の残る、長崎を中心とした九州に数十件にのぼる天主堂建築を建てた鉄川与助の功績は大きい[1]

伝統的な様式を採用せずに、通常の建築物の手法で建築する、居抜き出店の形で利用する、テナントとして入居する場合も有る。

脚注

編集
  1. ^ 雜賀雄二『天主堂物語』新潮社、雜賀雄二『天主堂 光の建築』淡交社
  1. ^ 信仰が無い人、特に信仰の無い日本人が教会堂について記事を書くと、妙に、外観にだけ気をとられ外観のことだけに言及し、肝心の建物内部のことに全く言及しないという、非常におかしな傾向があるが、キリスト教の本場であるヨーロッパでは(西ヨーロッパでも、東ヨーロッパでも)、歴史的に教会堂の設計者たちが設計時に主に考えてきたことは、キリスト教の信仰のためには建物の内部空間をどうするのが良いか、ということであり、教会堂の設計の力点はその内部空間に置かれている。

関連項目

編集