攻克于子章臺
(攻克于子章台から転送)
「攻克于子章臺」は、『清實錄』[1]中にみえる後金アイシン・グルン(後の大清) と明 (崇禎朝) との戦役。所謂「明清交替」の一連の戦役の一つ。
兼ねてより紅衣砲[注 1]の自国製造を進めていた後金軍は、本戦役で同砲を本格的に実戦導入した。その威力と成果を強く実感した太宗ホン・タイジは、その後の諸戦においても同砲を積極的に活用するようになる。
経緯
編集祖大壽の明兵が立て篭もる大凌河城 (現凌海市) を攻略したい後金軍は、天聰5年163110月、滿洲マンジュ兵500名と漢人ニカン兵全軍を出動させ、さらに漢人兵に紅衣砲6門・将軍砲54門を与え、大凌河城北方に位置する于子章臺 (現義県南端の大凌河沿部?)[注 2]に進攻させた。この時、于子章臺から逃亡した二人の明人の供述により、仮に大凌河城が陥落しても、同臺の明兵は降伏せず逃走する計画であることがわかった。[2]
邊外に屹立し、堅牢な垣牆によって護られる于子章臺を、後金軍は紅衣・大将軍両砲で三日間に亘り砲撃し続け、同月12日、姫垣を撃砕した。爆死した明兵が57人の多きにのぼったことで、同臺參將の王景は抗戦継続困難と判断し、壮丁239人・婦女幼児339人・牲畜70頭を連れて投降した。于子章臺は竟に陥落した。[1]
周辺100餘箇所の臺では、于子章臺の陥落を伝え聞くや、近きは後金に投降し、遠きは臺を放棄し遁走する者が続出した。制圧された周辺各臺から集められた糧秣は、量にして後金軍の兵馬を一箇月養えるほどであった。同臺の陥落はまた、瀋陽からの輸送に頼っていた後金軍の糧秣供給問題を解決し、大凌河城攻略に於いて後金の有利にはたらいた。[1]
脚註
編集典拠
編集註釈
編集文献
編集- 馬佳氏圖海, 他『太宗文皇帝實錄』(漢) 順治6年1649
論文
編集- 『東洋史研究』59巻3号, 東洋史研究会 (2000) 楠木 賢道「天聴五年大凌河攻城戰からみたアイシン國政權の構造」