改革国民政党
大韓民国の政党 (2002-2004)
改革国民政党(かいかくこくみんせいとう)は韓国の政党。2002年12月の大統領選挙を前にした11月、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補であった盧武鉉に近い柳時敏など所謂「親盧系」の人々が政治改革と政党改革を旗印として結成された[1]。政治的立場は進歩的自由主義[2]。略称は改革党。
改革国民政党 개혁국민정당 | |
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成立年月日 |
2002年11月16日 (法的登録日は12月10日) |
解散年月日 | 2004年9月13日 |
解散理由 | 政党要件喪失 |
後継政党 | 無し(人脈的には開かれたウリ党) |
政治的思想・立場 | 進歩的自由主義 |
改革国民政党 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 개혁국민정당 |
漢字: | 改革國民政黨 |
発音: | ケヒョックンミンジョンダン |
初代代表に柳時敏を選出。また創党宣言文では地域主義を克服する国民統合政党、全党員が意志決定に参加する参与民主主義政党、未来型インターネット政党を目指すことも盛り込まれた。同月、ハンナラ党議員1名が入党したことで院内政党となった[3]。大統領選挙では盧武鉉の応援団であるノサモとともに選挙運動を展開した[4]。2003年4月末に行われた京畿道高陽市徳陽区甲選挙区の国会議員再選挙では前代表の柳時敏を擁立、民主党の支援も受けて当選を果たした。
盧大統領の与党民主党では新主流派(親盧派)と旧主流派(金大中派)の葛藤が政権発足直後から続き、新主流派は新党結成を宣言する事態となった。一方、改革党はインターネットを用いた党員投票を通じて党解散と新党参加を決定、11月に新主流派によって結成された新党「開かれたウリ党」に柳時敏を初めとする大部分の党員が合流した[5]。しかし、中央選挙管理委員会(以下、中央選管)はインターネットを通じて行われた党解散決議は無効であるとの判断を下し、党解散届を差し戻す決定を行ったため、党自体は解散されなかった。翌2004年9月、法的要件を喪失したため、中央選管によって登録が抹消された。
沿革
編集脚注
編集- ^ “개혁국민정당 유시민 대표 선출(改革国民政党 柳時敏代表選出)”. プレシアン. (2003年11月18日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “유시민 '신당 일정' 제시(柳時敏‘新党日程’提示)”. 東亜日報(本国版). (2003年5月2日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “"한나라, 개혁세력을 장식품 취급 반DJ 집착해 수구냉전으로 전락"(ハンナラ、改革勢力は装飾品の取扱 反DJ執着して守旧冷戦へ転落)”. オーマイニュース. (2002年11月24日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “한나라 "개혁정당은 노사모 운동조직"(ハンナラ“改革政党はノサモ運動組織”)”. 東亜日報(本国版). (2002年12月16日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “개혁당 해산 열린우리당에 합류(改革党解散開かれたウリ党へ合流)”. 東亜日報(本国版). (2003年11月1日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “개혁국민정당 새대표에 김원웅의원 선출(改革国民政党新しい代表に金元雄議員選出)”. 東亜日報(本国版). (2003年1月20日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “한나라 재보선 2승 1패(ハンナラ再補選2勝1敗)”. 東亜日報(本国版). (2003年4月25日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “선관위, 개혁당 온라인 당해산 “법적 효력없다”(選管委、‘改革党オンライン党解散“法的効力無い”)”. フィナンシャルニュース). (2003年11月19日) 2013年3月7日閲覧。
- ^ “중앙선관위, 개혁국민정당 등 6개 정당 등록 취소 국민통합21 등 개정 정당법상의 요건충족 못해(中央選管委、改革国民政党など6個政党登録、取消 国民統合21など改正政党法上の要件充足せず)”. ニュースタウン. (2004年9月16日) 2013年3月7日閲覧。