支倉時正
支倉時正(はせくら ときまさ、弘治2年(1556年) - 慶長15年(1610年))は安土桃山時代から江戸時代の武士。
時代 | 安土桃山時代から江戸時代初期 |
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生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 慶長15年(1610年) |
改名 | 山口時正→支倉時正 |
別名 | 受領名:紀伊守 |
主君 | 伊達政宗 |
藩 | 仙台藩 |
父母 | 父:支倉常正 |
兄弟 | 支倉常豊、支倉時正、山口常成 |
妻 | 砂金貞常の娘、後離婚し後妻を迎える |
子 |
支倉久成、支倉常次 養子:支倉常長 |
生涯
編集支倉常正の次男として生まれ、陸奥国信夫郡の山口城で成長した。若い頃は山口城主を勤め、弟の山口常成と共に山口姓を称していた。
その後、支倉本家を継いでいた兄・支倉常豊が24歳で早世したため、支倉家の家督を継ぐことになり支倉時正と名を改めた。家督相続後、時正は伊達輝宗、伊達政宗に仕え、伊達郡南方旗頭として、大崎合戦、白石城の戦いなどに出陣し、その度に旗頭や武者奉行などを務め軍功を上げ知行1200石を得た。最初の妻、砂金貞常の娘とのあいだには子供が授からなかったため、弟の山口常成の次男常長を養子に迎え嗣子としていた。だが、理由あって離縁したあと、迎えいれた後妻のあいだに久成、常次と二人授かったため、政宗の命により、常長と久成、両名に600石ずつとし、常長を分家させたという。
だが、弟の常成とともに鍋丸事件(支倉家と砂金家との領地争い)を起こし、時正自身は支倉から仙北に移封され、常成は切腹させられた。このことにより、仙台市博物館には、「支倉常長の父親を切腹させた」との記述のある書状が残されている。
出典
編集
参考文献
編集- 支倉常長の謎 樫山巌著