揖斐 政雄(いび まさお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士

 
揖斐政雄
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 不明
死没 文禄元年(1592年)2月13日
別名 与右衛門
戒名 全松
幕府 室町幕府
主君 織田信雄
氏族 土岐氏揖斐氏
父母 父:揖斐政勝
渥美刑部
政景政吉
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概要

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揖斐氏土岐頼清の次男・土岐頼雄美濃国大野郡揖斐郷に住んだことに始まり、詮頼(頼詮とも)-政延-頼延-詮延-詮政-政勝-政雄と続いた。揖斐政延の代に尾張国葉栗郡奈良郷に移住し、天正13年(1585年)の織田信雄の分限帳によれば政雄も尾張国丹羽郡羽根郷・中奈良郷(現在の愛知県丹羽郡扶桑町、江南市中奈良町)を拠点とした。

織田信雄に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは11人の首を取ったという。その後は信雄とともに出羽国に移住して文禄元年(1592年)2月13日に同地で死去した[1]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 『寛政重脩諸家譜 第2輯[1]』(國民圖書、1923年)

関連項目

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