掃守小麻呂
出自
編集「掃守連氏」は朝廷の清掃・舗設を職能とする品部である「掃守部」を率いた伴造氏族で、『新撰姓氏録』では、「左京神別」「河内国神別」に分類され「振魂命四世孫、天忍人命之後也」とあり、尾張国造と同族となっている。高安郡掃守郷(現在の大阪府八尾市南高安町一帯)を根拠地としていたと推定される。一族には、大化5年(649年)9月に三輪君色夫とともに新羅に派遣された掃部連角麻呂がおり、外交関係で重用された一族であったことが窺われる。
記録
編集白雉4年(653年)、遣唐第2船の大使高田首根麻呂の副使として、学問僧道福(どうふく)・義向(ぎきょう)ら120名とともに乗船し、唐に派遣された。このときの位は小乙上であった[1]。
同年7月、高田根麻呂らは薩摩の曲(くま)と竹嶋との間で船が衝突し、そのまま沈没して水死した。この時5名だけは板に捕まり、竹島に流れ着き、そこから更に筏を造って、飮まず食わずの6日間を費やして神嶋(しときしま、今の甑島列島の上甑島)へ辿りついたという[2]。この生存者の中に掃守小麻呂の名前はなく、よって遣唐船とともに海の藻屑と消えたようである。
同時に出航した遣唐第1船の大使吉士長丹・副使吉士駒らは無事唐に到達し、目的を果たして、翌白雉5年(654年)7月新羅・百済の送使とともに筑紫に到着している。