捨て奸

撤退時に用いられる戦法のひとつ

捨て奸捨奸(すてがまり)とは、合戦における計略の呼称。

呼称

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この呼称がいつの頃から利用されていたのかは判然とせず、一般的な百科事典にも採録されていないが、少なくとも明治17年(1884年)刊「武田三代軍記」片島深淵著[1]においては、信州塩尻合戦において板垣信形が伊那勢の偽装退却の計略に引き込まれて損害を出したことに対して「乗捨奸(すてがまりにのる)」と表現していることが発見できる。明治26年(1893年)出版の「関ケ原軍記」足立庚吉著[2]には、関ケ原合戦における島津軍の「退き陣」を指して捨がまりを用いて退くと記述し、「がまりといふは伏兵の事なり」「島津家には捨奸と号して危急の退口には必らず之を用」と注記する。奸は字義から推すに「奸計」のことであろう。「がまり」についても推測の域を出ないが、「草屈(くさかまり)」という語があり、「かまり」は「かがまり」の略であり、草むらに隠れて敵情を探る者、忍び物見、ふせかまりの意味がある[3]

関ヶ原の戦いにおける捨て奸

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戦国時代薩摩国大名島津氏により用いられたと言われる戦術の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたとされることで知られている。

本隊が撤退する際に殿の兵の中から小部隊がその場に留まり、あたかも伏兵が存在しているかのように思わせることで時間を稼ぐ。罠がないと気が付いた敵軍が突撃してくると死ぬまで戦い、あるいは実際に少数で伏兵となって潜み、追撃者を奇襲することで対処を強要し、そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせるという戦法であった。

関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊して、周りが東軍(徳川家康方)の敵だらけの中で陣を引くにあたり、3,000余の兵数が300人程に減っていたが、敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から離脱を図った。

「捨て奸」は敵に視認しづらくするのと、鉄砲射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してからで敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉井伊直政本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、直政はこのとき受けた傷がもとで2年後に病死に至ったと言われる。島津義弘らは養老山地を抜けてに至り、海路を経て薩摩へ帰りつくことができた[4]が、生きて薩摩に戻ったのは、300人のうち80数名だったといわれる。

高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を始めとした80余名であった[要出典]。この島津の退き口で行われた捨て奸は、義弘や家老達に指名された者より志願者の方が多かったという。

妙円寺詣りと関ケ原戦跡踏破隊

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鹿児島県では「退き口」を偲ぶ妙円寺詣りという行事がある。その世話役であった窪田廣治が1960年、鹿児島の子供が島津隊の脱出路を歩く「関ケ原戦跡踏破隊」を始め、21世紀に至った。薩摩藩が工事を担った宝暦治水の恩返しとして、岐阜県海津市の住民が案内役を務めている[4]

脚注

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  1. ^ 片島深淵「武田三代軍記」(徴古堂ほか、1884)[1]
  2. ^ 足立庚吉「関ケ原軍記」(礫川出版社、1893)、[2]P.321(コマ番号162)
  3. ^ 小学館デジタル大辞泉「草屈り」[3]
  4. ^ a b 【みちものがたり】関ケ原戦跡踏破隊の道(岐阜、三重、滋賀県)島津義弘しのび「チェスト」鹿児島の子2日間歩き通す『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2019年8月24日(6-7面)2020年12月31日閲覧

関連項目

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