成瀬隆蔵

明治期の実業家、教育者

成瀬 隆蔵(なるせ りゅうぞう、旧字体成󠄁瀨 隆󠄁藏1857年1月18日安政3年12月23日[1] - 1942年昭和17年)2月1日[2])は、明治期実業家教育者東京高等商業学校(現一橋大学)教頭兼幹事、大阪商業学校(現大阪市立大学)校長、三井家同族会主事・書記長、三井合名会社理事を歴任。別名、正忠。

経歴

編集

本姓は川村。江戸生まれ。家は旗本成瀬家。最初1875年(明治8年)に慶應義塾入学するが、転学し、1877年(明治10年)商法講習所(現一橋大学)を1期生として卒業し、同年矢野二郎校長の推薦により母校商法講習所助教心得に就任。翌1878年助教に就任。

商法講習所が改組されてできた旧制東京高等商業学校(現一橋大学)の教頭兼幹事を経て、1892年(明治25年)旧制大阪商業学校(現大阪市立大学)校長に転じ、1895年(明治28年)三井財閥に入り、在華紡の先駆けであった上海紡績会社の総支配人に就任。三井家同族会秘書課長や主事、書記長、三井合名会社理事を務めた。1906年に設立された財団法人三井慈善病院(現三井記念病院)では監事を務めた。

1908年の申酉事件では、図師民嘉村瀬春雄八十島親徳宮川久次郎と大学問題実行委員に就任。文部大臣らの説得に尽力し、母校防衛に貢献した[3][4]如水会理事なども務めた[5]

1942年2月1日、クルップ性肺炎のため東京市牛込区市谷仲之町(現・東京都新宿区市谷仲之町)の自宅で死去[2]

栄典

編集

親族

編集

子に成瀬達成瀬雄吾(三井グループ重役)、弘世現がいる。長女・きめ(1888年生)は海江田幸吉(海江田信義三男)の妻[7]。ほかに四男の成瀬日吉(1898年生、文学士)、五男の醍醐大児(1902年生、陸軍騎兵中尉)は醍醐忠直(醍醐忠順の子)の養子。久邇朝尊は曾孫[7]

脚注

編集
  1. ^ 『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年、p.734。
  2. ^ a b 『博展』合併第11号・通巻第67号、日本博覧会協会、1942年3月、p.40。
  3. ^ 「海上保険学の父。村瀬文庫寄贈。申酉事件を解決し、廃校の危機から母校を救う。(1871~1924) 」一橋新聞
  4. ^ 「4「一橋商科大学実現論」に発展」如水会
  5. ^ 官報 1925年10月27日
  6. ^ 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。
  7. ^ a b 成瀨隆藏 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

編集