恵通航空
概略
編集日本と中華民国は満州事変の停戦協定である塘沽協定を締結し、両国の軍隊は所定のラインまで後退した。その一方で事実上国民政府(中国国民党)は華北における主権の一部を喪失する結果となった。
日本の関東軍と冀察政務委員会の合意により、合弁企業として、1936年11月7日設立されたのが恵通航空であった。資本金は400万円で冀察政務委員会と満州航空が出資した。そのため、実際には華満合弁企業の形式であった。本社は当初は天津に置かれていたが、1938年1月に北京に移転した。
航空路として1936年11月17日から天津~大連線、北京~錦州線、天津~承徳線の運航を開始した。しかしながら国民政府の指導者である蔣介石からは、冀察政務委員会は日本に屈服したと判断し、中華民国に対する主権侵害と侵略行為であると強く非難した。
その直後の1937年7月7日に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発した。そのため恵通航空を母体として、日本の後ろ盾で作られた中華民国臨時政府、中華民国維新政府、蒙疆連合委員会の各政権の出資を仰いで新たに中華航空(現存するチャイナエアラインとは無関係)が設立された。そのため、同航空は発展的解消をした。
参考資料
編集- 日本民間航空史、佐藤一一著、国書刊行会、2003年刊