恭淑皇后
恭淑皇后(きょうしゅくこうごう)は、南宋の寧宗の最初の皇后。姓は韓氏。
韓皇后 | |
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南宋の皇后 | |
在位 |
紹熙5年7月6日[1] - 慶元6年11月7日 (1194年7月25日 - 1200年12月14日) |
別称 | 恭淑皇后 |
出生 |
乾道元年(1165年) |
死去 |
慶元6年11月7日[1][2] (1200年12月14日) 臨安府、坤寧殿 |
配偶者 | 寧宗 |
子女 |
趙埈 趙坦 |
父親 | 韓同卿 |
母親 | 安国夫人荘氏 |
生涯
編集相州安陽県の人。韓同卿(韓肖冑の子の韓協の子)と正妻の荘氏の次女。寧宗の下で権勢を振るう韓侂冑(高宗の皇后呉氏の妹の子)の従兄の韓肖冑(韓治の子で、韓琦の子の韓忠彦の孫)の曾孫娘にあたる。
姉と共に後宮に入り、太上皇(高宗)と太上皇后(呉氏)の側にはべり、おっとりした従順な性格だったために可愛がられた。淳熙12年(1185年)8月に平陽郡王趙拡(後の寧宗)と娶わせられ、新安郡夫人に封ぜられた[1]。淳熙16年(1189年)5月、趙拡の父の光宗が即位すると、趙拡は郡王から親王に上ったので韓氏は崇国夫人に進んだ[1]。
紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、皇后に冊立された。寧宗の寵愛を受け、また韓侂冑の後盾になった。韓侂冑は皇后より3世代上の傍系尊属であったが、年齢は近く、外戚として権勢を高めて人々の注目を集めた。対照的に実父の韓同卿は、おとなしく慎み深い性格で目立ったことはしなかった。韓皇后は2人の男子を産んだが、みな夭折した。後年、楊貴妃と寵愛を争ったといわれる。
慶元6年11月7日(1200年12月14日)、坤寧殿にて崩御。「恭淑」と諡され[3]、臨安府の南山にある広教寺に葬られた[4]。
男子
編集- 趙埈(1196年生没)
- 趙坦(1200年生没)
脚注
編集伝記資料
編集- 『宋史』巻243 后妃伝下 恭淑韓皇后伝
- 『宋会要輯稿』巻12 后妃一 寧宗恭淑韓皇后
- 『建炎以来朝野雑記』