忠貞可汗
忠貞可汗(ちゅうていかがん、拼音:Zhōngzhēn Kĕhàn、? - 790年)は、回鶻可汗国の第5代可汗。氏は薬羅葛(ヤグラカル)氏、名は多邏斯(タラス)。可汗号はテングリデ・ボルミシュ・キュリュグ・ビルゲ・カガン(Täŋridä bolmiš külüg bilgä qaγan)[1]で、唐より忠貞可汗の称号を加えられた。
生涯
編集武義成功可汗の子として生まれる。
貞元5年(789年)12月、汨咄禄長寿天親毘伽可汗[2](武義成功可汗)が薨去したため、子の多邏斯(タラス)が立ち、国人たちは彼を「泮官特勤」[3]と号した。唐は3日間廃朝し、鴻臚卿の郭鋒に節を持たせて弔問させるとともに、多邏斯を冊立して愛登里羅汨没蜜施倶録毘伽忠貞可汗[4]の称号を授けた。
貞元6年(790年)4月、忠貞可汗は少可敦の葉公主に毒殺され、忠貞可汗の弟が簒立して可汗となった。しかし、まもなく彼らも国人たちに殺され、忠貞可汗の幼子である阿啜(アチュル?)が立てられ、可汗となった。
妻子
編集- 可敦(カトゥン:皇后)
- 咸安公主
- 少可敦の葉公主…僕固懐恩の子の回鶻葉護(ウイグル・ヤブグ)の娘。
- 子
- 阿啜(奉誠可汗)
脚注
編集参考資料
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