忠望王
光孝平氏。神祇伯。子に偕行-元平(子に公誠(周防守、拾遺詞花等作者)、元俊(木工允)、兼忠(周防守、従五位下)、幾忠(讃岐守、従五位下))
経歴
編集内膳正を経て、朱雀朝から村上朝にかけて神祇伯を務め、伊予権守も兼ねる。位階は従四位上に至った。承平7年(937年)「神祇伯忠望王等解状」を太政官に提出し、諸国司が位禄を給付しようとしないため、官人らが困窮に喘いでいる問題を訴えている[1]。また、天暦10年(956年)忠望王は勅勘を被っていたが、6月の月次祭の際、五位以上の神祇大副/少副がおらず神祇伯の代官を立てられなかったことから、六位以下の神祇官人が神事に参加しない事態が発生。そこで、忠望王は勅勘を免じられて月次祭に参仕した[2]。応和元年(961年)伊勢神宮祈祷使を務めている。
官歴
編集系譜
編集『尊卑分脈』による。