応州(おうしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から民国初年にかけて、現在の山西省応県一帯に設置された。
乾符年間、唐により朔州金城県に応州が置かれた。
遼のとき、応州は西京路に属し、金城・渾源・河陰の3県を管轄した。1167年(大定7年)、金により河陰県は山陰県と改称された。
元のとき、応州は大同路に属し、金城・山陰の2県を管轄した[1]。
1369年(洪武2年)、明により金城県は廃止され、応州に編入された。応州は大同府に属し、山陰県1県を管轄した[2]。
清のとき、応州は大同府に属し、属県を持たない散州となった[3]。
1912年、中華民国により応州は廃止され、応県と改められた。