志駄義時
志駄 義時 (しだ よしとき、1542年?-1561年)は、戦国時代の武将である。上杉氏の家臣[1]。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 永禄4年(1561年) |
別名 | 志田 義時 |
墓所 | 西福寺(東京都豊島区) |
主君 | 上杉謙信 |
氏族 | 志田氏 |
父母 | 志駄春義 |
妻 | 直江景綱の姉 |
子 | 志駄義秀 |
略歴
編集越後国夏戸城(現新潟県長岡市)の城主であり、1561年第四次川中島の戦いでは直江景綱に従い参戦するも。討ち死にした[2]。嫡男の義秀は当時2歳であり、義秀の母の実家である直江氏が後見人となった[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 日本外史-上(1921年、933p)
- 北陸道(1984)
- 史料通信協会叢誌(94p)