志村弘強
1752-1843, 江戸時代後期の儒学者。『環海異聞』編
志村 弘強(しむら ひろゆき、明和4年4月7日(1767年5月4日) - 天保14年1月14日(1843年2月12日))は、江戸時代後期の儒学者。字(あざな)は中行。別号に石渓、蒙庵(もうあん)、菊隠。
人物情報 | |
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生誕 |
1767年4月7日 日本陸奥国江刺郡(現岩手県羽黒堂村) |
死没 | 1843年2月12日 (75歳没) |
出身校 | 昌平黌 |
学問 | |
研究分野 | 儒学 |
経歴
編集陸奥国江刺郡(現岩手県)羽黒堂村中山の生まれ。長兄は志村實因(五城)、次兄は志村時恭(東嶼)で、兄弟三人とも儒学者として江戸時代中期から後期にかけて活躍し、志村三珠樹と称された。
神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関である昌平黌で学び、古賀精里に師事。天保5年(1834年)に学問所の師範となる。のち仙台藩の藩校である養賢堂の副学頭となり、12代藩主伊達斉邦の侍講も務めた。長兄の志村實因(五城)に子がいないことから、養子入りしている。天保14年(1843年)に77歳(数え年)で死去。
業績
編集大槻玄沢との共著、環海異聞の執筆
編集環海異聞は、仙台藩の船員津太夫らが回漕中、暴風雨のためロシア領に漂着し、ナーツカ、ヤコーツカ、イルコーツカ、ペトルブルカなどロシア各地をめぐり、皇帝アレクサンドル1世に謁見し、レザノフ使節と共に帰国するまでの顛末をまとめた漂流記。 全16巻からなり、文化4年(1807年)に完成。本文中、漂流民の帰路を示した地図や衣服などの絵図が多く収められており、鎖国下の日本にとって非常に貴重な情報源となった。宮城県指定の有形文化財に登録されている[1]。
著書
編集- 『環海異聞』(大槻玄沢と共編、1807年)
- 『菊隱詩集』
- 『志村篤治上書』(宮城県図書館古典籍類所蔵資料)
参考文献
編集- 志村健雄『三珠樹集』(国立国会図書館蔵書、公共図書館蔵書、1911年)
- 岩井憲幸『大槻玄沢・志村弘強編『環海異聞』本文確定の基礎的研究』(明治大学人文科学研究所紀要)
- 志村健雄『志村氏族譜・族譜補』